愛情編 ②
「…お父さん、お腹すいた…」
膝元で、6歳の息子のパウルが弱々しく服の裾を引いた。隣では10歳になる娘、リナが、不安そうに周囲を見回している。
妻のアンナはといえば、長旅と極限の緊張で土気色になった顔を伏せ、祈るように指を組み合わせていた。
「大丈夫だ、もう少しの辛抱だぞ」
私は掠れた声で息子をなだめる。震える手で、豪華な応接室の椅子に触れた。王国の崩壊。燃える街。絶え間ない暴動。
かつて栄華を極めた国は一夜にして地獄と化し、私たちは着の身着のままで逃げ出した。行き着いたこの帝国で、噂に聞いた「慈悲深い富豪」に縋るしか、道は残されていなかったのだ。
ギィ、と重厚な扉が開く。
「お待たせしたね。遠路はるばる、疲れただろう」
穏やかな、けれどどこか体温を感じさせない声。
私は、立ち上がり、命の恩人となるであろうその人物に深々と頭を下げた。そして顔を上げ、その声の主の姿が視界に入った瞬間、私の全身は凍り付いた。
汚れ一つない贅沢な家令の服。あの日から、時が止まったかのように変わらない、端正な顔立ち。
そして何より――。
人の心なんて一切存在しないかのように澄み渡った、あの底冷えする瞳。
「……ア、…アルスなの…か……?」
震える唇から、自分でも信じられない名前が漏れていた。まさか。ありえない。村が襲われたあの日を思い出す。…まさか、生きていたとは、思わなかった。
「……!もしかして…ガイ、かな?久しぶりだね…!!」
アルス…いや、アルス様は、さも当然のように私の名前を呼んだ。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
脳裏に、かつての光景が濁流のように押し寄せた。
泥の中に突き飛ばし、
腹を蹴り上げ、
「悪魔」と罵り、
石を投げつけた。
殴っても、蹴っても、あいつは一度も怒らなかった。
「な、なぜ…お前がここに…」
「色々あってね。…それよりガイ、君たち家族は顔色が良くないようだ。まずはゆっくり休むといい」
アルスが、私の子供たちに視線を向ける。私は反射的に、子供たちの肩を抱き寄せた。
「可愛い子供たちだね。奥さんに似ている、のかな。こんにちは」
「こんにちは…」
「こんにちは…おじさん、お父さんの、友達なの?」
パウルが無邪気に問うが、私は気が気ではない。
「そうだね、昔の、古いお友達だよ」
「そっか…!よかったね、お父さん!」
「よかったわね、あなた…」
「あ、ああ…友達、だよ…」
乾いた笑いを返すことしか出来ない。
友達。
その言葉が、私の胸を焼く。押し寄せる、凄まじい「自責の念」。逃げてきた先で、最も顔を合わせたくない相手に、自らの生存を委ねなければならない。子供たちを救うために、かつて自分が踏みにじった男に縋らなければならない。
アルスの目は、あの頃と何も変わっていない。
怒りも、恨みも、悲しみもない。ただ、そこに在る『現象』として、私を眺めている。
「お父さんの…友達……!リナです、よろしく、お願いします…!」
娘が立ち上がり、アルスに深々と頭を下げる。そんな様子を見た彼は、膝を折り、リナへと穏やかに語りかけた。
「よろしくね、リナさん」
所作や雰囲気こそ柔らかくなっているが、その、冷たい空気は何一つ変わっていない。気持ち悪いほどに当時のままだ。
私はそんな様子を見、這いつくばるようにして、震える声で絞り出した。
「…頼む。アル…いや、お願いします…アルス様。子供たちだけでも、どうか…」
【ガイ:家族への愛情 86、自責 73、自己犠牲 65】
「頭を上げてくれ、ガイ。アルスでいいよ。マルタ、彼らに客室を用意してあげてくれないか。ベリル、温かい食事の用意を」
使用人は、深く頭を下げ、奥へと消えていった。その言葉にぱっと表情が明るくなる妻と子供たち。
私の感情は抜きだ。今は、頼るしか、ないんだ。
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