淑女編 ⑩
床に這いつくばったまま、私は二人の会話を「鑑賞」していた。
マルタ。この屋敷へ来た日、私を汚物だと罵った彼女が、今は私のために声を震わせている。彼女が説く、人間が人間であるための「指針」。
「アルス様が、私の様な使用人や、ベリルへ、どのような感情を持って手を差し伸べたのかはわかりかねます。ですが、人間という種族において、『人道』…、『人間性』というのは…、きっと、多分、とても、大切な物です」
「ほう…?」
アルス様は私には一瞥もくれず、階段を一歩一歩降りていく。その先には、必死に声を絞り出すマルタの姿があった。
【マルタ:恐怖 52→64、ベリルに対する同情 32→40】
「私も、…きっとベリルも、人間の汚らしい側面も嫌と言うほど目の当たりにしてきました。でも、一度拾い上げて、捨てられる…。それは、何よりも辛いものです」
「なるほど、彼女を『救済』することが、人間らしさ、だと。なら逆にマルタ、君に問おう。君は、這いつくばるベリルに同情しているだけではないのか?君は、彼女にかつての自分を重ね合わせているだけではないのか?君は、彼女を見捨てることが、自分を見捨てると同義であると思えて、恐怖を感じているのではないのか?違うかい?」
捲し立てるアルス様の言葉は、純粋な、知的好奇心に満ちた響き。
「それは…。いいえ、私は、ただ…」
「君の『同情』は、救済ではない。自分は救われた側だという優越感を確認するための、安っぽい何かだよ。僕の立場や富を前提とした救済というのなら、それは唾棄すべき他力本願でしかない。本当に彼女に価値があると思うなら、君が代わりに外へ行くべきだ。それとも、君の衣服を、君の食事を、君の地位を、すべて彼女に譲って、君がまた暗闇へ回帰するか、だ。…それが君の言う、『人道』なのだろう?」
マルタの息が止まる音がした。
広間を支配するのは、アルスさんの残酷なまでの正論。
「君にはできない。僕にもできない。なぜなら、生命に根源的な価値など存在しないからだ。価値とは常に、社会に承認されて初めて生まれるものだ。僕は彼女に『淑女』という価値を貸し出した。だが、彼女はそれを維持できず、あまつさえ僕を裏切った。契約は破綻したんだ。破綻した商品を処分するのは、商売としても、論理としても、これ以上ないほどに誠実な振る舞いだと思わないかい?」
(ああ…。そう。その通りだわ)
アルスさんの言葉が、私の胸に沈み込んでいく。私は、自分が特別な宝石だと思っていた。でも、それはアルスさんが私にかけた「魔法」でしかなかった。魔法が解ければ、私はただの不快な記憶を持つ、銅貨一枚の肉塊。
【ベリル:自尊心 12、自己憎悪 80、絶望 90】
マルタの啜り泣く声すら、もう遠い。彼女の同情は、アルス様の残酷な言の葉によって、木っ端微塵に粉砕されてしまった。
人道なんて、救いなんて…この人の前では、何の力も持たない。
(磨き上げられ、美しさを知ってしまった石ころに…。一体、何が残されているというの?)
檻の中で「自分はかつて宝石だった」と自覚しながら生きるのは、死よりも永い地獄だということを、私はもう理解してしまっている。
でも、これ以上、マルタに負担をかけるわけにはいかない。私はここで”終わる”のだ。なればこそ、終わるのであれば、せめて。裏切ってしまった元奴隷としての贖罪を、彼に。
私は立ち上がり、ドレスを脱ぐ。
装飾品を自ら外していく。
そして、それを、アルス様へ手渡した。
すると、彼は、私の頭の上。
虚空へ視線を向けた。
【ベリル:自尊心 12→8、自己憎悪 80→90、矜持 20】
「ほう…ベリル。君は、堕ちなかったんだね。矜持、か…美しい」
「えっ…」
彼の予想外の言葉に、私の思考は停止してしまった。
「マルタ」
すすり泣くマルタを、アルス様はどこまでも優しく抱き寄せる。
「ベリルは、確かに君の言葉で、何か変化があったようだ。君の言う、人間性、僕も見てみたい」
はっ、と顔を上げるマルタ。
その声に、嘘はない。嘘はないが、温度もなかった。
「ベリルは、どうかな。もう一度、僕の下で、働いてみないか。もちろん、お給料も出すよ。君の働き次第だけどね」
アルスさんは、私を見据えて、優しく微笑んだ。
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