淑女編 ⑨
「…あら。随分とお早いお帰りですこと、ベリルお嬢様?」
夜更けの屋敷。エントランスの重い扉を叩き、転がり込むように入ってきた彼女の姿を見て、私は思わず唇を歪めた。
数時間前までのあの傲慢な美貌はどこへやら。ドレスは乱れ、髪飾りはどこかへ落とし、化粧は涙で無残に崩れている。
その姿は、かつてこの屋敷へ来たときのものと、何一つ変わっていなかった。
「アルス様は!? アルス様はどこにいらっしゃるの!?」
「旦那様なら、書斎で読書をされておりますわ。…ですが、あの方の名前を叫ぶのはおやめなさい。今のあなたは、あまりにも見苦しい」
私の言葉など耳に入っていない様子で、彼女は階段を駆け上がろうとする。けれど、その足を止めたのは、二階の踊り場に音もなく姿を現したアルス様の、冷徹な一言だった。
「――騒々しいね。夜中に騒ぐのはやめてくれないか」
「アルス様! 私、私、酷いことを言われましたの!
あの方たちが、私が偽物だとか…!」
【ベリル:自尊心 84→72、傲慢 88、焦燥 68、アルスへの愛情 26】
彼女が縋るようにアルス様を見上げる。けれど、その瞳には、かつてのような「教育者」としての光は微塵もなかった。
「事実だよ。ベリル」
「…え?」
「月を見たことがあるかい?あれは、自分で光を放っている訳じゃないんだ。光、そう、太陽があってこそ、夜空に美しく輝くんだ。僕が言いたいことが、わかるよね」
「…それって…」
「マルタ、彼女を外へ。ああ、彼女の衣服と装飾品も回収しておいてくれないか」
「そんな…嫌! 嫌ですわ! 私は、私は…!」
ベリルが泣き叫び、踊り場のアルス様へ駆け寄る。裾を掴もうとするけれど、アルス様は不快そうにその手を振り払い、私に催促した。
「マルタ。聞こえなかったのかな」
私は、アルス様のその冷徹な処遇に恐怖を感じた。彼は慈悲深い人格者である。それは間違いない。我々、使用人も元をたどれば彼女と大差ないのだ。娼婦、物乞い、未亡人…。日々の暮らしですら、困窮していた我々を救ってくれたのがアルス様だ。
だが、この、傲慢な元奴隷への処遇は、あまりにも、血が通っていない。
しかし、使用人の分際で、意見をしてもよいものか。自分も彼女と同じ様に捨てられるのではないか…。
「あ、アルス様…」
だが、そんな逡巡を無視して、私の声帯はひとりでに音を発した。
「お、…お言葉、ですが…慈悲は…。彼女に、機会を…与えることは、可能でしょうか…」
【マルタ:恐怖 52、ベリルに対する同情 32】
「…ほう?マルタ、何故かな?」
私は恐る恐るアルス様に問いかけた。アルス様は私の発言に怒りを露わにするでもなく、興味深く聞き返す。その感情が無い視線で、次の言葉を紡ぐ事ができない。
恐ろしくなって目をそらした先には、ベリルが床に這いつくばり、私の言葉を祈るように待っていた。
「彼女は、元奴隷です…。そして私も、地獄からアルス様に救われた身。確かに、彼女は勘違いし、アルス様のお顔に泥を塗りました。しかし、また、同じ環境に逆戻りさせるというのは…、その、あの………人道的に…どうかと…」
「人道的…!なるほど!僕に人道を説くのかい!いいよ、教えてくれ!君が思う、その『人道』とやらを!」
アルス様はパチン、と手を叩き、表情を崩した。しかし、その目の奥は一切笑っていない。
「…私は無学です。アルス様の様な教養は一切ありません。ですが、人間が人間たりうる指針は…、あるものかと存じます…」
あまりの緊張感で、乾ききった口内。
しかし、私は恐る恐る、言葉を紡いだ。
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