淑女編 ⑧
「あら…? 今夜はアルス卿はいらっしゃらないのかしら」
舞踏会。煌びやかなシャンデリアが放つ黄金の光の下で、扇の隙間からこっそりと囁き合う。注目の的は、広間の中央に立つ一人の女性。
ベリル、と呼ばれている彼女は、相変わらず完璧なドレスと宝石に身を包んでいたけれど…。その背後に、いつも控えていた”彼”の姿はない。
盾を失った宝石。それがどれほど危ういものか、彼女自身だけが気づいていないようだった。
「ベリル嬢。アルス卿がいらっしゃらないとは珍しい」
帝国の歴史学に明るい伯爵が、薄笑いを浮かべて彼女に近づいた。彼はわざとらしくワイングラスを揺らし、獲物を追い詰める猟犬のような鋭い視線を彼女に向ける。
「…ところで、ベリル嬢。君が先ほどあちらの公爵と談笑していた『北方の三大大公による継承戦』の話…。少しばかり事実誤認があるようだね。あの方の教育が、細部までは届かなかったとお見受けする」
周囲の貴族たちがニヤニヤと包囲網を縮める。「アルス卿の秘蔵っ子」の化けの皮が剥がれる瞬間を、誰もが心待ちにしていた。
けれど、ベリルは優雅に扇を閉じ、凛とした声で模範回答を口にした。
「…誤認、ですか? 伯爵」
その声に揺らぎはない。
「継承戦の折、確かに北方の血族は一時的に実権を失いました。ですが、三代前の大動乱の折、帝都の直系血族であるアレンス家が調停に入り、暫定的な統治権が移されたはず。…アルス様から頂いた資料には、そう記されておりましたけれど?」
「…ほう」
伯爵の眉がピクリと動く。周囲に、どよめきが広がった。
完璧な回答。ただ事実を述べるだけでなく、日付や家名まで正確に挙げられたその返答に、伯爵は一瞬言葉を失う。
アルス卿に叩き込まれた知識は、一分の隙もなく、彼女の脳内に定着していた。教育は「完璧」だった。だが、伯爵の薄笑いは、消えるどころか、より深くなった。
「知識は立派だ、驚いたよ。…アルス卿は、君という『箱』に、どれほどのモノを詰め込んだのだろうな」
伯爵は一歩、彼女の領域に踏み込む。
「だが、ベリル嬢。君は何かを語り、その正義を主張する際、無意識に左のドレスの裾を指先で弄る癖があるようだね。…それは、嘘をつく時の癖か?あるいは、この場所に何か不安を感じている…卑しい者の…」
「っ…!」
ベリルがハッとして自分の手元を見る。確かに、彼女の指先は、無意識に絹の布地を小さく摘まんでいた。一度指摘されれば、それはもう「慎み深いレディの仕草」ではなく、「不安に駆られた平民の癖」にしか見えない。
アルス卿がいれば、そんな些細な動揺も、厳しい視線一つで修正させただろう。
だが、今の彼女は一人だ。
「…気づかなかったのかな?この会場にいる者で、”ここに居る”ことに不安を感じる者など一人もいない。なぜなら、私たちはここにいて『当然』だからだ。…教育で頭の中を埋め尽くすことはできても、その身に刻まれた『卑屈』までは、アルス卿も洗い流せなかったようだね」
「…あ、私は…私は、ただ……」
「お可哀想なのは、アルス卿ね」
扇の影から、高貴な夫人たちが憐憫の声を上げる。
「あの方ほどの傑物が、慈悲をかけて育て上げた結果が…これ。知識はあっても、育ちが、魂がついてきていない。…これではまるで、立派な衣を纏わせただけの猿ではないかしら」
「本当ね。慈悲深いあの方の顔に、彼女は自ら泥を塗っているわ。…見て、あの視線。ほんと、卑しいわね」
誰一人として、彼女に味方をする者はいない。
彼女が勝ち誇っていた「美しさ」も、アルスという後ろ盾を失い、自らの「本性」な部分を突かれた瞬間に、ただの「場違いな厚化粧」へと変貌していく。
「見て、あの手。無様に震えているわ」
「化けの皮が剥がれたら、ただの臆病な小娘じゃない。アルス卿の『淑女』というブランドを汚した罪は重いわよ」
嘲笑。
侮蔑。
憐憫。
そして、決定的な拒絶。
「あ、アルス様…! 誰か、アルス様を呼んできてちょうだい!」
取り乱し、周囲の給仕に縋り付こうとする彼女の姿を見て、私たちは確信した。それは「宝石」ではない。
ただ、アルス卿が気まぐれに輝かせて見せていた、路傍の石ころに過ぎなかった。
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