淑女編 ①
帝国の北端。軍港へと続く路地裏は、常に重油の臭いと錆びた鉄の冷気に包まれている。無秩序に立ち並ぶ粗末なバラック。その壁には軍の徴用を逃れた浮浪者や、出自の怪しい流れ者たちが、死んだ魚のような瞳でうずくまっていた。
ここは、帝国の繁栄が削り落とした「滓」が溜まる場所だ。僕は、薄汚れたそれらを観察しながら、その湿った石畳を歩く。視界に浮かぶのは、どん底ゆえの数値。
【空腹 90】
【怨嗟 85】
生きるために他者を喰らおうとする、ありふれた活力の塊だ。だが今回、僕には明確な目的がある。そんな僕が納得するような――。
「…そこの兄ちゃん。ちょっと見ていかねぇか」
バラックの隙間、腐った木材を立てかけただけの檻の影から、男が声をかけてきた。男の背後には、錆びついた鉄籠がいくつか並んでいる。
「こいつらは奴隷市で買い手が付かなかったゴミだ。処分するのも手間だし、特別価格でゆずるぜ。どうだ」
男が指差した檻の中には、数人の男女。ボロ布を纏い、泥と垢に塗れた肌から発せられる、臭気。そして生気のない瞳。
一様にして、彼ら、彼女らは、虚空を見つめていた。
僕は黙って、それらに視線を差し向けた。
【男性:自尊心 0、恐怖 10、理性 37、空腹感 82】
【女性:自尊心 0、恐怖 40、理性 32、期待 41】
【少女:自尊心 5、恐怖 60、理性 20、諦観 93】
【少女:自尊心 0、恐怖 79、理性 15、郷愁 92】
【男性:自尊心 2、恐怖 41、理性 38、怨嗟 64】
軒並み、予想通りの数値だが。
「お兄さん、私、こんなにも…ここから出してくれたら…」
そのうち一人の女性が、檻の前に躍り出る。ぼろ布をたくし上げ、煽情を煽るような仕草を見せる。
「ありがとう、でも、誘われるのは僕だけじゃないみたいだよ」
「えっ…どういう…きゃあ!」
同じ檻の男性が、その女性に襲い掛かった。タガが外れたのだろう。自身が撒いた種だ、自らで収穫してもらう他ない。
そんな騒ぎのなか、僕が目に付けたのは一人の少女。
諦めてはいるが、自尊心を保っている。状況に対して正しく恐怖を感じており、理性もまだ生きている。
「あの、少女を貰おう。おいくらだろうか」
「はっ、銅貨一枚でいい。邪魔で仕方がねえんだ」
僕は言われた通りの小銭を渡し、檻の扉を開けた。
ギィィ…
バラックの湿った空気が、檻の中へと流れ込む。
「お兄さん、俺も、俺も出してくれ…!」
もう一人の男性が、僕に救いを求めてきた。だが、奴隷と言う立場からの脱却は、そうそう簡単ではない。
「うるせぇ!お客に近づくんじゃねぇゴミが!!」
売人の男はすかさず男性を棒で打ち据える。
いくつかの肉が打ち付けられる音が響くなか、僕は少女に手を差し出した。少女は僕が近づくと身をピクッとさせ、呼吸が荒くなる。だが、僕が笑顔を見せると、やがて落ち着きを取り戻し始めた。
僕は彼女の細い顎を、やさしく持ち上げた。光を反射しない、無色の瞳。
「僕はアルス。君の名前は…そうか、ないんだったね。そうだな…今日から君は、『ベリル』だ」
「…」
「さぁ、ベリル。僕と一緒にここから出よう。君は自由だよ」
「毎度あり」
檻の中を制圧し終えた売人の男の声を背後に、僕は彼女に優しく手を差し出し、その凄惨な状況から救出した。
帝国の冷たい風が、彼女の髪を無造作に撫でた。
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