修道女編 ⑤
「…」
血まみれの小さな腕に抱きしめられながら、僕は完全に硬直していた。他者の体温というものは、極めて不快だ。
これまで僕に触れてきた人間は、僕の才能を利用しようとする欲得か、あるいは僕の能力を恐れ、敵意を持っている者しかいなかったからだ。
だが、今の彼女からは、そのどちらも感じない。
ただただ、僕の『空白』を埋めようとするような、純粋で愚かな温もりだけがあった。僕は、至近距離から彼女にスキャナーを走らせた。
この状況下において、彼女が僕に抱いている感情の正体を、数値として定義するために。
【エララ:アルスへの同情 100、慈愛 100、自己愛 0】
「…本気で、僕を哀れんでいるのか」
思わず、乾いた声が漏れた。世界のすべてを盤上の数字として見下ろしてきたこの僕を。今にも飢えと怪我で死にそうな泥まみれの少女が、心底かわいそうなものを見る目で同情している。
最高に滑稽だ。
他者の痛みに共感しすぎて、自分の痛みを完全に無視してしまう異常な数値。彼女は『崇高な人間』でも『自己愛の偽善者』でもなかった。
「…君は、僕と同じだ」
僕は、彼女の肩をそっと推し返し、その腕の中から抜け出した。
「え…?」
きょとんとするエララを見下ろしながら、僕は静かに結論を口にする。
「他人の感情が全く感知できず、機能が抜け落ちている僕と。他人の感情を受信しすぎて、自分自身の自己保存機能が焼け焦げて手放してしまった君。極端に方向が違うだけで、君も僕も等しく、初めから壊れている『欠陥品』だ」
「欠陥、品…」
「これ以上、君を観察しても無駄だということが分かったよ」
僕は立ち上がり、教会の出口へと歩き出した。
これまでの実験は、分厚い虚栄心を被った『正常な人間』を極限状態に追い込み、その皮が剥がれて生存本能が露わになる様を観測するものだった。
だが、目の前の少女は違う。
剥がすべきものなど最初から存在しない。
彼女は、生まれた時から「他人のためにしか生きられない」という致死性の欠陥を抱えた、哀れな壊れたガラクタなのだ。初めから壊れているものを、これ以上壊しようがあるものか。
「待って、アルスさん…行くんですか?」
背中越しに、エララの心細そうな声が聞こえた。僕は振り返らなかった。ただ、足元に金貨の入った袋を無造作に放り投げた。
「…君の様な稀有な人間が、単なる飢えであっさり死んでしまうのは勿体ない」
ガチャリ、と重い金属の音が教会の床に響いた。あの王子からかすめ取った途方もない富の一部。孤児たちを一生養ってもお釣りがくるほどの量。
驚いて言葉を失うエララと子供たちを背に、僕は夜のスラムへと静かに歩み去った。
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