修道女編 ③
僕がこの半壊した教会で彼女の行動を観察し始めて、五日が経過した。
結論から言えば、僕の『感情数値化』は正常に機能している。道行く飢えた難民からは【生存本能 100】【絶望 90】【強盗衝動 80】といった、生物としての極めて真っ当で美しい数値が読み取れる。
ただ一人、この教会のシスター、エララを除いて。
彼女は自分の分の配給すら孤児に分け与え、自らの生命力を文字通り削り取っている。だが、その動機をいくらスキャンしても、【名誉欲】や【自己陶酔】といった、自己愛に基づく数値は一切発現しない。
常に【自己犠牲 100】【利他心 100】【自己愛 0】という、人間として完全に破綻した数値を弾き出し続けていた。
「…やはり、物理的な刺激が必要か」
僕は、純粋な実験目的として、ある「状況」を意図的に作り出した。スラムで暴れ回る半ば盗賊と化した難民グループに金貨一枚を握らせ、この教会に「隠し食糧がある」という偽の情報を流したのだ。
極度の暴力と死の恐怖。自己の肉体が破壊される直接的な危機。いかに自己暗示をかけていようと、生物である以上、命の危機に直面すれば強制的に『生存本能』が跳ね上がる。そこを見逃さず、彼女を観測するのだ。
その日の夕刻。
扉を蹴り破って、武器を持った四人の男たちが教会に踏み込んできた。
「食い物を出せ!ここに隠されていることは分かってんだ!」
血走った目で怒鳴り散らす男たちに、孤児たちが悲鳴を上げて教会の隅へ逃げ込む。
僕は長椅子の陰に身を潜めながら、エララへとスキャナーの焦点を合わせた。
さあ、どうする?子供を見捨てて逃げれば、生存本能の証明だ。
「やめてください!子供たちには何もしないで!」
エララは、震える足で男たちの前に立ちはだかった。パンなどどこにもない。金もない。隠すものなど何もないのだ。
逆上した男が、太い腕でエララの顔を殴りつけた。床に吹き飛んだ彼女の腹部を、別の男が容赦なく蹴り上げる。鈍い音が響き、彼女が血を吐いてうずくまった。僕は、瞬きすら忘れてその数値の変動を凝視した。
【エララ:恐怖 90、利他心 100、自己愛 0】
肉体が破壊される恐怖は正常に上昇している。しかし――【自己愛】の数値が、全く動かない。
男たちが何度蹴りつけようが、彼女は「助けて」とも「命だけは勘弁して」とも言わず、ただ子供たちの盾になるように丸くなり、血を吐きながら必死に懇願し続けた。
「どうか…お願い、します。明日、私が…食料を、持って、いきますから…この子たちには…!」
やがて、何も奪うものがないと悟った男たちは、苛立ち任せに祭壇の燭台を蹴り倒し、唾を吐いて去っていった。静寂だけが残った教会で、子供たちが泣きながらエララにすがりついている。
「…」
僕は、長椅子の陰からゆっくりと歩み出た。血まみれになって倒れている彼女を見下ろす。ただただ、異物を喉に突っ込まれたような、底知れぬ違和感。困惑。
「…理解できない」
僕は、床に這いつくばる彼女に向けて、冷たく問いかけた。
「なぜ逃げなかった?怖かったはずだ。心の底から。生物の原則を無視して、なぜ赤の他人の子供の盾になる意味がある?」
異常個体。
到底『納得』などできようはずがない。
彼女は痛みに息を喘がせながら、ゆっくりと顔を上げ、血塗れの顔で僕に微笑んだ。
「アルス、さん…無事で、よかったです…」
「僕の質問に答えろ。自己より他者を優先するなど、生物として致命的な機能不全だ」
僕は論理の刃で彼女の異常性を突き刺そうとしていた。
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