追憶
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「ベリル…、いいの?私まで入ってしまって…」
「一人じゃ、どうしても怖くて…。彼も、マルタなら許してくれるはずですから」
私とマルタは、長い間固く閉ざされていた、アルス様の書斎にいた。主を失ってから長い年月が経ったにもかかわらず、ゲルトの行き届いた管理のおかげで、部屋には埃一つ落ちていない。
ただ、あの方の気配だけがすっぽりと抜け落ちていた。目の前の分厚い机の上にあるのは、彼がいつも何かを書き込んでいた、使い込まれた革表紙の手帳。
「私も、アルス様がいつも何かを書いているのを見たことはあるし、存在も知っていたけれど…」
マルタは、その古ぼけた、けれど彼にとっては命よりも大切だったであろう手帳を前に、得も言われぬ緊張が走る。
王国で彼が亡くなったあの日も、鞄の中にはこの手帳があった。
遺品として帝都へ持ち帰ってきたものの、中を見るのが恐ろしくて、書斎と共にずっと開けずに置いていたのだ。
「マルタ、怖い…」
「だめよ、あの方の奥方でしょう…!さあ、勇気をもって」
震える私の背中を、マルタがぽんと優しく押す。私は、恐る恐る手を伸ばし、その重たい手帳の表紙を開いた。
「…っ!」
ページをめくった瞬間、私は息を呑んだ。そこには、彼が生涯を懸けて追い求めてきた『愛情』や『感情』の正体を理解するための、身の毛もよだつような実験の数々が克明に記録されていたのだ。
村を襲われ、全てを失って逃げてきた王国での日々。彼に復讐を果たした、勇者レオンの惨惨たる没落の過程。
「あっ、賢者様のことも書いてありますね」
「『完全なる論理破綻と自壊』…。昔、新聞に載っていたわ…。あの事件も、アルス様が関わっていたのね」
マルタが背後から覗き込みながら、青ざめた顔で呟く。
血の通っていない、冷酷な考察。感情をただの数値と現象としてしか捉えていない、アルス様らしい筆致だ。
「次は…聖騎士、ユリウス…」
「聖騎士だって、ただの人間よ。死ぬのは怖いに決まってるわ」
そこからページを進めると、舞台は帝国での日々に移る。
「清廉の白百合…怖い…この騎士様、白百合様と浮気相手を殺しちゃったのね…」
「愛していたからなのか、狂気なのか…。ほんと、アルス様の手帳には恐ろしい話ばかりです」
人間の内面を深くえぐり出し、極限状態での変化を観察する実験と、その結果に対するアルス様の冷静すぎる考察。
そして、ついに。
「『宝石』ベリル…」
私のことも、丁寧に記録されていた。初めて彼に買われた日、そして、傲慢に振る舞ってすべてを失いかけたあの日のこと。
「『慢心による自滅』…ひどいわ。でも、何一つ間違いではないのだけれど…」
「…」
「あっ、マルタ、あなたのことも書いてありますよ」
「えっ、どれどれ…。『使用人マルタの人道的な介入』『非合理な行動』…って。
ほんと、あの時の私、アルス様に真っ向から意見するなんてどうかしてたわよね…」
マルタは顔を引きつらせて苦笑いする。
「でも、あの時の無茶なおかげで、いまの私が居ます」
「…それも、そうね。よくやったわ、過去の私」
私たちは当時の生きた心地がしなかった記憶を思い出し、少しだけ笑い合いながらさらにページを繰った。
「次に記録されているのは…狂信者アデリア…。あの奥様、結局どうなったのかしら…」
「ガイさんのことも書いてあります。…アンナさんの旦那様ですね。彼についても、本当に細かく…」
「アンナさんも、あの時は本当に大変だったわよね…」
今でも時折、屋敷へ顔を出してくれるアンナさんは、私の数少ない心からの友人だ。
リナさんとエマは、今でも手紙のやり取りをするほど仲が良いし、パウルさんとゴーシュは、お互いにどう距離を詰めていいかわからない様子で、見ているとなんだか心が和む。
「アルス様は、アンナさんたち一家を見て、家族というものに興味を持たれたのかしら」
「ベリル、見て、ここ『ベリルの数値変動』って…」
マルタの指差す先には、その時の私の心情の変化が綴られていた。
「わ、私は、この頃からアルス様を愛していた?のかしら…。自分でもはっきりとは分からないのに。でも、そんな心の奥底のことまで読まれていただなんて…。すごく恥ずかしいです」
「ふふっ、本当に丸裸ね」
愛情の数値が変化したと文字で書かれているが、私自身、それがいつ確信に変わったのかは、今でもうまく言葉にできない。
「つぎは…エマの誕生…!」
ページをめくると、あの大変だった出産の日が記録されていた。相変わらずの無機質な記録の羅列だが、なぜか、少しだけ文字が優しいように見えてしまう。
「エマが出来てから、あなた本当に強くなったわよね」
「そうですね。彼に対して遠慮せずに意見することも、増えたかもしれません」
「母親はそうあるべきよ!」
明確な『実験日記』としての記録は、ここで終わっていた。
その後のページには、日々の細かな疑問や、私、エマ、マルタ、クロエ…。屋敷の使用人たちの感情変化が、事細かに管理され、メモとして残されていた。
アルス様の几帳面な性格と、それでも必死に何かの答えを手探りで見つけようとしていたような、不器用さにとても彼らしさを感じて、私は少しだけ笑ってしまった。
「そして、最後はあの王国への家族旅行の記録。実際は、大司教エララ様とお話しするのが本当の目的だったけれど」
私は手帳を静かに閉じ、窓の外を見た。
あの日、王都の教会で起きた、元勇者レオンの凶行。この手帳に書かれた彼への所業を見れば、レオンが殺意を抱いても全くおかしくない内容だ。
アルス様は、やはり善人ではなかった。
わかってはいた。出会った時から、彼がどこか壊れていることは、ずっとわかっていた。
だが、こうやって彼が歩んできた道程を文字で追体験すると、その冷酷さが現実味を帯びて、私の胸を締め付けた。
私の感情の変化を感じ取ったのか、ふいに、マルタがそっと私の震える肩を抱いた。
「あなたには、エマもいる。ゴーシュもいる。そして、私もいるわ。みんな、アルス様が与えて、必死に守ってくれたものよ。すごく歪んではいたけれどね」
「そうですね…」
彼の不器用な愛は、間違いなくここで、生きている。息づいている。
私が涙を拭い、ふぅ、と息を吐き出した時、時計の針が目に入った。
「あっ、もうこんな時間!今日はお客様が来るのだったわ!」
「ああ!私も厨房へ行かないと!ゲルト…怒ってなければいいけど…」
重苦しい過去の空気は一瞬にして吹き飛び、私たちは慌てて書斎を飛び出した。
閉ざされた扉の向こう、主のいない机の上で。役目を終えた手帳が木漏れ日に照らされ、静かに微睡んでいた。
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