解明編 ⑨
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血だまりの中に崩れ落ち、動かなくなった彼を、私は震える腕で力強く抱き上げた。
「…あぁ、アルス様……」
その顔は、私が彼と出会って過ごしてきたこの数年間、一度だって見たことがないほどに穏やかな…すべてに満たされたような、優しい表情をしていた。
アルス様が自身の気持ちというものを自覚した、その途端にこの仕打ち。
…ああ。神はどこまで理不尽なのでしょうか。彼を見放したというのでしょうか。
かつては、私の彼への想いか、ただの飼い主への『依存』ではないかと疑ったこともあった。でも、大司教様のお言葉を聞いて、胸の霧が晴れた。大司教様の言うことは真に正しい。
私は彼を、誰よりも心から深く愛していたのだ。
冷たい床の上で彼の冷えゆく頬を撫でながら、これまでの走馬灯のような記憶が脳裏を過る。
首輪をつけられていた奴隷だった頃の日々は、ここでの幸せな時間の色で上書きされてしまって、正直もう詳細には思い出せない。
でも、私が彼に買われ、ある日『ベリル』という美しい新しい名前をもらったあの日のことだけは、今でも鮮明に思い出せる。
淑女として生きることを教えられ、その意味を勘違いして驕り高ぶり、すべてを台無しにして彼から捨てられそうになったこともあった。
思い出す度に顔から火が出るほど恥ずかしくなる、私の愚かな日々。
でも、あの時マルタが助けてくれた。絶対に他人の感情になど歩み寄らないあのアルス様に、使用人の身で真っ向から立ち向かってまで…。
そして不意にやってきた、彼からのプロポーズ。
正直、私はすごく戸惑った。「だってあなた、何を考えているか少しもわからなかったんですもの」と、今なら面と向かって、笑って文句が言える。
私は彼と結ばれ、エマの母となった。そしてそれと同時に、私には一生の親友ができたのだ。
何でも話せる、初めての友達。同僚、そして頼れる姉のような、マルタ。
アルス様がどん底から私を拾ってくれたから。彼がすべてを計算し、与えてくれたから。私は、こんなにもたくさんの、愛しくてあたたかいものを手に入れられたのだ。
「今日、やっと。本当にこの今の瞬間にだけに、私は貴方が本当は不器用に愛してくれていたことを、私の愛が届いていたことを知ることができたのに。…やっと、本当の相思相愛になれたのに」
やっと、心から、愛し合えたのに。
どうして、ここでお別れなのだろうか。
私は堰を切ったように溢れ出る涙を止められないまま、アルス様の唇に優しく口づけた。私の涙が、彼の穏やかな顔を伝って落ちていく。
「…お母様。お父様はもう…助からないよ」
背中を幼い腕で強く抱きしめられ、エマの震えた小さな声が聞こえた。
彼女は泣きながらも、懸命に、そして残酷なまでに冷静な『事実』を私に告げていた。
こんな時にまで、徹底的な合理的な思考、判断。
本当、誰に似たのかしら。
愛する旦那様の残り香を感じて、私は泣き笑いのような顔で、エマの震える背中を優しく抱きしめ返した。
「アルスさんは、決して聖人ではありませんでした」
私たちの様子を静かに見守っていた大司教様が、優しく慈愛に満ちた声音で、彼に語りかけるように言った。
「でも、彼に救われた命は少なくありません。私もその一人です。…そして、彼自身もまた、何かが壊れたまま成長してしまった。『被害者』だったのかもしれません」
「大司教、様…」
「彼にとっての唯一の救いがあるとしたら。ベリルさん、そしてエマさん。間違いなく、あなた方の存在です。だって、こんなにも…穏やかで、満ち足りたお顔なのですから」
「…………はい」
私は返事をしながら、彼の頭を強く抱きしめる。
「神よ、今、観測者たる彼は、彼の人生の最大の謎を解き明かし、
あなたの下へ旅立ちました。どうか、ご慈悲を…」
彼の中にあった空っぽの冷たい穴を、最期に私たちが温かいもので、埋めることができたのだと信じて。
王都大教会の天井から、ステンドグラスを通して降り注ぐあたたかで尊い光が。私が世界で誰よりも愛したアルス様の穏やかな寝顔を、祝福するようにいつまでも明るく照らし続けていた。
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