偶像編 ⑥
(アルス様が、わざわざ余計に火に油を注いだ結果がこれだわ)
私はヒヤヒヤしながら、彼を睨みつけた。アルス様は微塵も怒っている様子はなく、むしろこの危機的な状況すらも心から楽しんでいるように見える。
しかし、アルス様に侮辱をぶつけたジュリアン様に対するエマの反応は、全く違うものだった。
「訂正してください」
いつもの愛らしい穏やかな笑顔は、完全に消え失せていた。冷たく、底なしに暗い声が広間に響く。
「なっ…」
「お父様を、ひいてはお母様を、そしてクォーツ家全体を侮辱するその発言を。今すぐ、ここで訂正してください」
「じ、事実だろうっ!平民上がりの…っ」
「何を根拠に仰っているのかわかりません。確固たる数字も根拠のない感情論で、お父様を侮辱しないでください」
【エマ:怒り 0→80、アルスへの愛情 84、ベリルへの愛情 87】
エマが…怒っている?
私は目を見張った。ずっと彼女を見てきた母親としての勘が、強く警鐘を鳴らしていた。彼女は今、単なる計算や合理性だけで動いているのではない。明確に『大好きなお父様を馬鹿にされた』という、純粋な怒りだけで動いている。
初めて見る娘のその冷ややかな形相に、私は驚きと戸惑いを隠せない。
「ジュリアン様。今日の、このお茶会は、ノアール家が貴族社会での権威を維持するために催されているものです」
「な、何を言っているんだお前…っ」
「それ自体は貴族であれば通常のことです。ですが…現在参加されている有力貴族の構成、そしてお母様たちの席順を見るに、ノアール家の派閥には最近少し、 翳りが見え始めているのではありませんか?だからこそ、今回のお茶会に我がクォーツ家を取り込むことで、確固たる後ろ盾を得て盤石にしようとしている…」
「っ……!?」
横から血相を変えて飛び込んできたノアール卿が、ビクッと肩を震わせて息を飲んだ。自身の家の水面下での切実な政治的思惑を、少女に完璧に見透かされ、さらには公衆の面前で言語化されたことに、明確な恐怖を覚えている顔だった。
「助けを求める場で、助けを求めようとしている相手の当主を侮辱するようなあなたの行為は、ジュリアン様のお父様の思惑とは完全に真逆であり、その期待を致命的に裏切る行為ではないのでしょうか」
一切の隙のない正論で、エマはジュリアン様個人だけでなく『ノアール家』そのものを追い詰める。
アルス様は、そんなエマの思考を、まるで見事な芸術品の完成を見るように興味深そうに観察している。周りの貴族たちも、エマの恐ろしいほどに理路整然とした反論を前に、声も出せずに唖然としていた。
「この発言による損失は、きっとはかり知れません。今後のノアール家の行く末を左右するものになるかもしれません。ですが、わたくしのお父様はとても慈悲深いお方です。ここで、ジュリアン様ご自身の口から先ほどの発言を訂正して頂ければ、きっと大事には至りません」
「ぁ…あ…」
「でも、お父様を侮辱したという事実は、なかったことにはなりません。正式な謝罪をお願いします」
逃げ道は、もうどこにもなかった。
圧倒的な正論の刃を突き付けられ、完膚なきまでに叩きのめされたジュリアン様は、ボロボロと大粒の涙をこぼす。
「う、うわぁぁぁーんっ!」
取り巻きの子供も大人も誰も助けてくれない絶望の中、耐えきれずに泣き崩れてしまった。
「あ、アルス卿っ!エマさん、そしてベリル夫人…。本当に、も、申し訳ない…。我が息子が、とんでもない無礼を…どうか、どうかご容赦を…」
ノアール卿は顔面蒼白になり、なりふり構わず見栄も捨てて、頭が地面につく勢いでアルス様に必死に謝罪を繰り返す。だが、エマの冷たい視線は動かない。
「ノアール卿。わたくしは、ジュリアン様『ご本人』に直接、謝罪を頂きたく存じます」
「…ほら、お前も今すぐ謝りなさい…っ!!」
「うっ、ううっ…ごめ、んなさいぃ…」
父親に促され、震えながら消え入るような声で頭を下げるジュリアン様。
その言葉を聞いた瞬間だった。
「…ふふっ!これで、いいよね、お父様!」
エマは先程までの虚無を貼り付けた顔から、パッと花が咲いたように表情を崩した。いつもの無邪気で愛らしい子供の顔で、アルス様へと振り返ったのだ。
「そうだね、エマ。ノアール卿、子供同士の些細な喧嘩です。ここでの問題は、なかったことにしましょう。お互い、そのほうが都合がいいのですから」
そして取り囲む観衆を見渡し、改めて釘を刺す。
「皆様も、このことは忘れて頂きたく思います」
「あ、ありがとうございます…!アルス卿…!」
「これからも、より良い帝国を目指して、共に頑張りましょう」
ジュリアン様の肩に手を置き、震える声で感謝を述べるノアール卿を前に、微笑み合う父と娘。その、あまりにも完璧で一切の容赦のない、アルス様そっくりの徹底的な追撃と、いつもの明るい笑顔への恐ろしい切り替え。
本当に、この親子は…。
周囲の安堵の空気から一人取り残されたように、私だけが背中に冷たい汗を流し、 ただただ言い知れない困惑を抱くしかなかった。
※この小説を面白いと感じていただけましたら、★★★★★の評価と【ブックマーク】で応援お願いします。




