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「私の霊と貴方の霊とが、混ざり合っているの。契約に必要なことよ。その内、慣れると思うわ」
「わた、わたしが、望まぬことは、しないと、いっ」
ユースは私と目線が合うようにしゃがみ、私を抱きしめた。夜と花の香りが私の鼻孔を擽り、眩暈を加速させた。
「嘘つき」
囁くような声色が、私の心臓を跳ね上げた。風の流れを感じられるほどに感覚が敏感になり、大気が衣服をすり抜けて、私の肌に触れているかのようであった。
ユースの手が衣服に潜り込んで、私の胸の先端を撫でた。
「――」
肩と腰が勝手に動き、体が硬直する。声にすらならない悲鳴が、喉を溢れ、視界が暗く閉ざされていく。見えている筈なのに、世界を認識出来なくなる。極度の睡魔に襲われているときのように、思考が鈍り、ただ感覚だけが身体に残っていた。
「■は嘘を吐かないわ」
私は認めざるを得なかった。私は必死に頷いて、ユースが手を止めるのを懇願した。私の意識が弾け飛ぶ寸前にユースは手を止めたが、そうすると、今度は別の問題が私の身を襲った。高ぶり、尖った感覚はユースが手を止めても収まらなかった。私は全身の熱に耐えきれなくなり、思わずその根源へと手を伸ばしたが、ユースに手を掴まれた。
「あら、はしたないわ」
「うるさい」
私は俯いて、耐え忍ぶしかなかった。
ユースの手が時折、私の頭を撫でるのが心地良く感じたが、結局は辛さが増すだけだった。
ユースは悪戯に私の顎や、首筋、腰回りなどを撫でて私を惑わせたが、私は意地でも声を上げるまいと、唇を噛み締めた。やがて耐え難い感覚の波が収まり、私は顔を上げた。ユースと目が合い、視線を逸らそうとすると、ユースの手が私の顎を掴み、それを阻止した。
私はユースの瞳に映る自分の姿を見て、初めて、変化した自分の姿を、真面に見た。
――ああ。
そして、私は己に宿る本質の幻影を見た。魔術師は皆、己の魔力を自覚した時点で、自身の魂の本質を、その象徴たる形象を見るという。
外円は、無数の直線に刺し貫かれた茨の円環。
その内側に配列されているのは、中央に頂点を向けた四つの正三角形。
そして、中央には円の内に鎖された黒点。
茨の円環は即ち、苦悩の象徴であるという。そして、その内側に在る正三角形は、一般には神聖の象徴だとされる。だが、同時にそれは、完全性を意味する四角形の砕けた姿であり、砕かれた完全性、破れた理想の象徴でもあった。
最後の円環と黒点は、光の宿らぬ瞳の形象であり──
「ちゃんと馴染んだみたいね」
「……精霊との、契約とは、全てが、こうなのか、つまり、その……」
「契約をする相手によるわね。契約というのは端的に言えば、魂……存在の本質……霊的性質の接続だもの。例えば火の精霊なんかとの契約は全身を焼かれるような苦痛があると云うわ」
「つまり、お前が、淫猥なせいで、こんな目に」
ユースは嗤って私の顔から手を離した。
「そういうことにしておきましょう。貴方の名誉のために」
私は憤慨したが、言い返すことはしなかった。そもそも、私がきちんと拒絶の意を発していたのなら、彼女は精霊の理によって、私を害することは出来なかった。私が本当に拒んでいたのならば、彼女は速やかに契約を解いて、私を襲ったあの忌々しい感覚の波を止めただろう。
「ねえ、そんなことよりも、貴方の名は? 私、貴方の名前が知りたいわ」
私はどう答えるべきか迷った。真実の名は魂と強い繋がりを持ち、優れた魔術師ならば、名を用いて、相手を縛ることが出来るという。
私は真実の名を伝えることで、契約の主導権が彼女に移ることを恐れた。……いや。違う。私は、私が男であった時に使っていた名を名乗ることが、何となく憚られるように思ったのだ。私は、既に、私ではないのだから。
「……ヘレーネ」
私は、今は亡き祖母の名を名乗ることにした。ユースは何度か私が名乗った名を口の中で転がすと満足そうに頷いた。
*
私達は、ユースが空けた大穴から、館を出た。私はユースにあの館のことを根掘り葉掘り訊いてみたのだが、彼女は少しだけ気分を
害したように眉を顰め、それから沈黙してしまった。私は自分が良くない類の好奇心を抱いていることに気が付いていたが、どうにも好奇心を抑えられなかった。私が余りにもしつこいので、ユースは遂に渋々といった口調で口を開いた。
「そもそも、あの館は、何の為に建てられたのだと思う? ヘレーネ」
「ふむ。……館なのだから、居住が目的なのは間違いない。神殿の類ではないが……儀式的痕跡は存在していた。ところで……お前が封印されていたことと、館の建造目的には何か関係があるのか?」
「ないわ」
ユースはそれきっり何を聞いても館について語ることはしなかった。仕方なく私は諦めた。悪戯な精霊が少なくとも寛大である内に。
*
硝子樹の大森林にまつわる伝承は数多く存在している。かつて王国を追われた魔術師が住んでいるだとか。星の女神が残した古い魔術が隠されているだとか。三眼の怪物が住み着いているだとか。
その大半は信じるに値しない戯言である。と、私は思っていたのだが。どのような伝承にも、例えそれが、欺瞞に満ちた作り話だとしても、その話の根源となるものが存在しているのだと思い知らされた。
私は硝子樹から落果した実を天に翳して、その輝きを覗き込んだ。無数の光が黒色の硝子質の実の中に閉じ込められている様は、まるで星空のようだった。
「硝子樹の実は、別名、夜空の瞳と呼ばれるらしいが……」
私が必死になって黒硝子の木の実を覗いていると、ユースが面白そうに笑った。私にはユースが笑った理由が容易に推察できたので、無視することにした。
「宝石に夢中になるおませな女の子みたいね」
「……美しいものは誰が見ても美しいものだぞ」
そう言い返したが、私の言葉にユースは感心した様子はなかった。ただクスクスと笑って私の手を握った。私は既に二度も転んで、危うい思いをしたので、振り払うわけにもいかなかった。
男の時よりも短くなった脚は、足場の悪い森の中を歩くのには適さなかった。何より、私は男だった時の感覚が中々抜けず、元の身体の歩幅で歩くせいか、何度も躓いてしまった。その度にユースが支えてくれたのだが、遂に面倒になったらしい。
私の身体は、年頃の少女としては平均的なユース(勿論、ユースが年頃の少女であるという意味ではない)の身体よりも更に小さく、不便なものであった。
私に、今の見かけ通りの、子供らしい活発さが少しでも残っていたのならば、そんなことは気にならなかったのだろうか。若返った身体を素直に享受できたのか。だが、残念ながら、私の活力や純真さは当の昔に時の流れが奪い去っていた。
私は煩い胸の鼓動が繋いだ手を通じてユースに伝わらないことを願った。
とはいえ。幾ら、この幼い身体に幾分かの失望を抱いたにせよ。私は傍に力ある精霊が居ることによって、安心と心強さを獲得して、図太くなっていた。
森の奥には宝石のように煌めく硝子質の植物が無数に生えていた。私はこれがどれほどの価値になるだろうかと考え、幾つかを摘み取った(尤も、実際に摘んだのはユースだが)。そして、私はその時になって漸く、金銭の問題に思い至った。
今の私の姿では、古い友人を訪ねることは出来ない。或いは、彼女ならば、私のこの偽りの姿を見抜いてくれるだろうか。──馬鹿馬鹿しい。そして、図々しい。期待するべきではない。何せ。そもそも。あの日、別れてから、一度だって会っていないのだ。男の姿でさえ、分かるわけがない。
それに、例え彼女が優れた魔術師であれ、星の女神による奇跡を看破することは困難である気がした。
私はふと、嫌な想像が脳裏に浮かび恐怖から肩を竦めた。
「そんなに心配しなくても。いざとなれば、私が石を金に変えてあげる」
「生憎だが、両替商や宝石商、銀行員は皆、特殊な霊的欺瞞の看破資格を持つ魔術師のみが行うことになっている。偽装された金や宝石なんて、直ぐにバレる」
「そう? 私の変換を見破れる魔術師が人間にそうそう居るとも思えないけれど。それに、霊的偽装じゃなくて、単純な物質変換だから、本物だし」
「……だとしてもだ」
恐らく、ユースの言葉は正しい。人類の扱う魔術と精霊の類が扱う力は、似通ってはいても、本質的には違うものだ。容易に見破れるとは私も思わない。
だが、オルニアスは魔術大国だ。オルニアスの両替商は、優れた魔術師が商っているのは間違いない。無用な危険を冒すのは得策ではなかった。
私は先ずオルニアスの大学へ向かい、ユースの力を見せるのが得策だろうと考えた。上手く気を引くことが出来れば、何かしらの支援が貰えるかもしれない。オルニアスの大学は優れた魔術師には支援を惜しまないことで有名だった。精霊使いであるとでも名乗れば、なんとかならないだろうか。私がその考えをユースに伝えると、ユースは逆に不安になるほどに、乗り気な笑みを浮かべた。
「任せておいて。貴方が史上最強の精霊魔術師? になる日は近いわ」
暫く歩いていると、木々の密度が減ってきていることに気が付いた。出口に近付いているらしい。私は道中獣の類に出会わなかったことを思い、やはり、硝子樹の大森林に生き物は住んでいないのだろうかと思った。
長らく乱雑と硝子の枝や葉が散らばっていた地面に変化が訪れ、私は枝や葉が横に退けられ、地面が踏み固められていることに気が付いた。そして、更に歩いていると、木製の柵のようなものを私は視界に捉えた。