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「星の女神に仕えた盲目の巫女達の正体を貴方は知っている?」
星の女神の信仰者達は、皆、麗しい女性であり、瞳を独特の飾帯で隠していたという。偽りの暗黒に、星を見る為に。そして、星の信仰者の中に、男性の信徒は限りなく少なく、現存している神殿の記録には、数えるほどしか残されていないという。伝承や神話に於いても、同様で、星の女神に仕えたとされる男性の逸話は、主を守る為に、太陽の騎士と相対し、後にその弟子になったとされる少年、幼き星の半剣ステラだけだ。
私は訝しんで、少女に話の続きを求めた。
「星の瞳は、双眸の間に与えられる、第三の瞳。それは、即ち、揺らぐことのない視座の天秤、其の支柱。完全性の象徴。……端的に言うのなら、星の瞳を与えられたものは、自らに欠けているものを得る」
「……死に対する生とか?」
「男に対する女とかね」
私は思わず額に手を当てた。
「だが……あれは……」
「まみえたのでしょう? あの忌々しい、無垢の輝きに。穢れなき星の女神に」
「……」
星の瞳とやらが、私に如何なる恩恵を与えてくれるのかは知らないが、それが此の辱めに見合うものであればいい。私は傍迷惑な女神を恨んだ。何故に、私を死の内に留め置いて、くれなかったのか。星の女神が、私を巫女に選ぶ理由など、何処にもなく、私には見当も付かなかった。或いは、これは懲罰なのか──
「男であれ、女であれ、私が私であることに変わりはない」
私の強がりに、少女は見透かすように笑った。
人の持つ個性とは大小様々な性質の集合である。確固たる唯一の本質などというものを持つのは神だけだろう。自身を構成している性質が変われば、当然、其れ自体も変質を避けられない。もはや私は、私であるために、かつての私を脳裏に刻み、それを演じなければならなくなった。
「そんなことよりも。……館を脱出する方法は。本当に知らないのか?」
「貴方が星の瞳を得た時点で、此の館は貴方のものよ。もう結界はない。堂々と玄関から出ればいいわ」
私は一瞬、彼女の正しさ疑ったが、そんなことは確かめれば直ぐに分かることであり、彼女が嘘を吐く理由もなかった。私は部屋の窓を叩き割って彼女の言葉が正しいかを確かめたくなったが、私の理性が野蛮な行為を拒んだ。
「私は帰る。……お前は、どうするんだ」
少女は溌剌と笑って、私の腕に触れた。私は反射的に思わず振り払って、後退った。その接触に、私の直観が、何か不穏なものを感じたからだ。
「取引しましょう」
「取引だと」
少女が人ならざる存在、精霊の類であることは今となっては、間違いない。精霊とは神の力の先触れであり、零れ墜ちた神の力の断片である。精霊達は霊的な交感により力を得るとされ、概念を食らうのだという。
故に精霊は時として、生き血を啜る。
「そう。取引。不安に思う必要はないわ。だって、貴方は星の瞳の巫女。全ての契約と全ての法が、貴方を裏切ることはない」
人ならざる霊的存在、その中でも、精霊との取引は、少なくとも、王国においては教会の発行する特別な資格が必要となる。精霊契約は、優れた霊媒を持つ魔術師か神官のみに許される、特殊な技能なのだ。
尤も、私に言わせれば、精霊との契約よりも、人間との契約の方が余程危険なのだが。精霊は嘘を吐かない。比喩でも何でもなく。文字通りの意味で。吐かない、ではなく、吐くことが出来ない、というべきか。肉体を持たず、純粋な霊体である精霊は、肉という殻が存在しない分、不安定なのだ。自己を規定するものが、自らの意思のみである以上、それを偽ることの代償は、人間よりも重い。
何より、今更私が、王国の法など気にする理由もない。だが、危険であることは間違いない。精霊は嘘を吐かない。だが、それは精霊が人を謀らないということを意味しない。
私は警戒して、眉を顰めた。
「私に何の利点がある」
「か弱い貴方を守ってあげられる」
「……余計なお世話だ。それに、お前にそれだけの力があるとも思えない」
少女は嗤った。私の強がりを見透かしているのだろう。実際のところ。この少女の身体は大きな問題だ。
少女は、窓の方向を指さして、息を大きく吸った。
「■■■■」
少女の言葉は力となって弾けた。古き、神の言葉。意味は、稲妻。稲妻は星々の連なりに似て鋭角で、堅く、そして、それは穿つ力である。
迸る稲妻が轟音と共に少女の指先より放たれ、恐らくは霊的に保護されている筈の硝子の棺を融解させながら粉砕し、その背後にある壁ごと諸々を消し飛ばした。部屋に出来た大穴からは、滾るように赤熱し、溶け出した硝子樹と大地が覗いていた。
私は沈黙せざるを得なかった。少女が指を此方へ向けた際に、私は無様にもか細い声を上げてしまった。私は震える手を隠すように後ろに回すと、辛うじて、首を横に振った。私は言葉を発する前に、喉の痙攣が落ち着くまで待たなければならなかった。
「お前が、その力を私に振るわない確証があるものか」
「貴方は星の瞳に守られているわ」
私は星の瞳とやらがどれほどの力を持っているのかと考えた。神話に伝わる通りであるのならば、星の巫女に与えられた第三の瞳はあらゆる欺瞞を見抜き、あらゆる非本質的な術を打ち破るという。そして、あらゆる裏切りと不条理、不平等を退け、それによって如何なる傷を負うこともない──
だが、神話は神話。伝説は伝説だ。鵜呑みにして、全てを真に受けるべきではない。
「それに、貴方一人では、森を抜けることはできないでしょう」
それは、その通りであった。私に与えられた印が、正しく、女神の加護の証であるのならば、私は森を抜ける資格を得たということになる。然し、少女の姿では、森を抜け出すことが困難であることには、変わりないだろう。森に獣が出るかも分からない。そして、獣に法の守りが通用するとも思えない。獣が生き物を食らうことに、正誤や善悪、そして、義理も不義理もあるわけがなく、仮に女神の守りが事実だとして、適用されることはないだろう。
硝子の果実を食すような化物が存在するとは思えなかったが、このような館があるのだからそれくらい居てもおかしくはないのかもしれない。
何よりも精霊の力があれば、森を抜けた後、オルニアスで暮らしやすくなる。オルニアスは魔術師達の国である。魔力を持たぬ私は良くは扱われないだろうが、精霊と契約していればそれも変わるだろう。私は、私自身に言い訳をするように、契約の利点を探していた。
「それで。お前は私に何を求めるというのだ」
「ほんの少しだけ。定期的に血を分けてくれればいいの。私は、貴方の血を媒介に蘇った。だから、貴方の血を得ることが、私にとって最も力を得るのに適しているのよ」
私は死の間際、私の流した血が彼女に触れたことを思い出した。
「私の血を吸い尽くすことがないと誓うか」
「誓うわ」
「私の望まぬことをしないと誓うか」
「それが貴方の死に直結しない限りは誓うわ」
私は頷いた。精霊は自らの宣言を裏切ることが出来ない。
「いいだろう」
精霊契約の方法は知っている。私は短剣を手首へと押し当て、軽く引いた。鮮やかな血が溢れ、珠を作る。私は短剣を少女へと手渡した。
「名は?」
「……。そうね。ユースティ……いえ……ユースでいいわ」
ユースと名乗った少女は私と同じように短剣を手首に当てて、躊躇いなく切り裂いた。だが、彼女の傷から赤い血が流れることはなかった。水のような透明な液体が溢れ出し、日の光で煌めいた。霊の水だ。その身を第五元素で構成する精霊の類は、赤き血ではなく、その身に穢れなき水を流す。
私は彼女の手首に触れ、傷跡を重ね、互いの血を混ぜ合わせた。血は魂の媒介であり、存在の本質を伝えるものである。精霊契約は本質の契り。血を混ぜ合わせることにより、互いの存在を縛り合うのだ。
そして何より、彼女のような精霊にとって血は確かに上質な食事となるだろう。
私はユースの血が(彼女の流した霊的な水が)身体の中に侵入してくるのを感じた。身体が熱を帯びて、胸が締め付けられる。下腹部に妙な違和感を覚えて、私は困惑した。葡萄酒を飲み過ぎた時のような酩酊感が私を支配しようとしている。脚が震えて、立っていられない。溢れ出した粘性の蜜が太腿に垂れて濡れていた。
耐えきれずに自身を抱くようにしゃがみ込んだ私を、ユースが愉悦の笑みを浮かべて、見下ろしていた。