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 *


 夢(ゆめ)を観(み)ていた。上(うえ)も下(した)もない暗闇(くらやみ)の中(なか)に、無数(むすう)の星(ほし)が煌(きら)めいている。


 私(わたし)は満天(まんてん)の星空(ほしぞら)の中(なか)を、覚束(おぼつか)ない足取(あしど)りで歩(ある)いていた。私(わたし)の思考(しこう)は熱病(ねつびょう)に冒(おか)されている時(とき)のように、曖昧(あいまい)として、自身(じしん)の手(て)より大(おお)きなものを、片手(かたて)で掴(つか)もうとし、滑(すべ)り落(お)としているかのようだった。


 思考(しこう)が纏(まと)まらず、意志(いし)と記憶(きおく)は悉(ことごと)く洗(あら)い流(なが)され留(とど)め置(お)くことが出来(でき)なかった。私(わたし)に出来(でき)たのは、ただ、宵闇(よいやみ)の中(なか)を、歩(ある)き続(つづ)けることだけだった。


 ――人(ひと)の子(こ)。罪(つみ)なきが故(ゆえ)に、許(ゆる)されることのない苦痛(くつう)に身(み)を留(とど)め置(お)くものよ。


 声(こえ)が、聞(き)こえた。


 全(すべ)てが曖昧(あいまい)な世界(せかい)の中(なか)で、いやにはっきりとした、鮮明(せんめい)な声(こえ)だった。聞(き)いたことのない、声(こえ)だったが、私(わたし)にはその声(こえ)の主(あるじ)が誰(だれ)なのか、瞬時(しゅんじ)に、分(わ)かった。


 万物(ばんぶつ)を繋(つな)ぎ止(と)めるもの。秩序(ちつじょ)の頸木(くびき)。雷鳴(らいめい)と共(とも)に出(い)でて、不可視(ふかし)の力(ちから)で咎人(とがびと)を裁(さば)くもの。弱(よわ)きに価値(かち)を与(あた)えるもの。


 私(わたし)は足(あし)を止(と)め、膝(ひざ)を突(つ)いて頭(こうべ)を垂(た)れた。何(なに)かが私(わたし)の頭(あたま)に触(ふ)れる。私(わたし)は好奇心(こうきしん)から、頭(あたま)を上(あ)げたくなったが、不敬(ふけい)がそのまま死(し)に繋(つな)がることを、本能的(ほんのうてき)に理解(りかい)していた。


 ――恐(おそ)らく。貴方(あなた)の予想(よそう)は当(あ)たっていますよ。私(わたし)は光(ルクス)。私は宵闇(よいやみ)の間隙(かんげき)。その瞬(またた)き。私(わたし)は火(ひ)と水(みず)、大地(だいち)と風(かぜ)とを繋(つな)ぎ止(と)めるもの。


 即(すなわ)ち、星々(ほしぼし)の連(つら)なりを冠(かんむり)として戴(いただ)くもの。


 ――破(やぶ)られる筈(はず)のない封印(ふういん)が破(やぶ)られました。貴方(あなた)のせいで。


 咎(とが)めるその声(こえ)は、然(しか)し、不思議(ふしぎ)と優(やさ)しい響(ひび)きで、暗闇(くらやみ)に広がった。


 ――私(わたし)の光(ひかり)は世界(せかい)に秩序(ちつじょ)を与(あた)えましたが、秩序(ちつじょ)が抑圧(よくあつ)という影(かげ)を生(う)んだように。私(わたし)が生(う)まれた際(さい)に、私(わたし)にも影(かげ)が生(う)まれました。そして、私(わたし)はかつて私(わたし)の影(かげ)を切(き)り離(はな)し、地上(ちじょう)に封(ふう)じたのです。


 私(わたし)はふと、あの硝子(がらす)の棺(ひつぎ)と、その内(うち)で眠(ねむ)る美(うつく)しき少女(しょうじょ)の姿(すがた)を幻視(げんし)した。まさしく。あの少女(しょうじょ)は。星々(ほしぼし)の煌(きら)めきの、その写(うつ)し身(み)のようではなかったか。


 ──哀(あわ)れな人(ひと)の子(こ)よ。白紙(けっぱく)で在(あ)れぬことを嘆(なげ)いたが故(ゆえ)に、自(みずか)らを茨(ぎむ)と流血(ばつ)で染(そ)める子(こ)よ。罪(つみ)なきが故(ゆえ)に、永遠(えいえん)の茨(いばら)に囚(とら)われた虜囚(りょしゅう)よ。その矛盾(むじゅん)が故(ゆえ)に、貴方(あなた)は私(わたし)の封(ふう)を破壊(はかい)した。


 冷(つめ)たい指先(ゆびさき)が額(ひたい)に触(ふ)れ、全身(ぜんしん)に激痛(げきつう)が走(はし)った。鋭利(えいり)な刃物(はもの)が体中(からだじゅう)に食い込(こ)んでいるかのような感覚(かんかく)に、叫(さけ)びを上(あ)げそうになる。だが、どれだけ口(くち)を開(ひら)こうと、言葉(ことば)が発(はっ)せられることはなかった。私(わたし)は自身(じしん)が夢(ゆめ)を観(み)ていることを、その故(ゆえ)に、言葉(ことば)が発(は)せられるべき肉体(にくたい)がないことを思(おも)い出(だ)した。私(にんげん)は魂(たましい)によって叫(さけ)ぶ方法(ほうほう)を既(すで)に忘(わす)れていた。


 ――貴方(あなた)に、私(わたし)の瞳(ちから)をあげましょう。貴方(あなた)の瑕(きず)が癒(いや)されるように。貴方(あなた)の軽率(けいそつ)さが許(ゆる)されるように。そして、貴方(あなた)が……。せめて、貴方(あなた)が己(おのれ)の愚(おろ)かさを愛(あい)せるように。


 ――きっと。私の影(あの子)は貴方(あなた)を望(のぞ)むでしょう。貴方(あなた)の愛(あい)を。私(わたし)がそうであるように。貴方(あなた)。無垢(むく)なる玻璃(はり)の杯(はい)たる貴方(あなた)。誰(だれ)もが、己(おのれ)の識(し)るものしか愛(あい)せない。たとえ、神(かみ)であったとしても。故(ゆえ)に。私達(光と闇)は二(ふた)つに別(わか)たれました。


 ――然(しか)し、忘(わす)れてはいけません。愛(あい)とは赦(ゆる)しではありません。

  

 *


 私(わたし)は、自身(じしん)の叫(さけ)びで、目(め)を覚(さ)ました。視界(しかい)が霞(かす)み、目(め)の奥(おく)が熱(あつ)い。一度(いちど)、二度(にど)、頭(あたま)を振(ふ)ると、妙(みょう)に頭(あたま)が重(おも)かった。


 辺(あた)りを見渡(みわた)し、私(わたし)は此処(ここ)が死(し)の果(は)てに在(あ)るという月(つき)の女神(めがみ)の楽園(らくえん)でないことに気(き)が付(つ)いた。私(わたし)は死(し)んだのではなかったのか。酷(ひど)い頭痛(ずつう)に、思(おも)わず額(ひたい)に手(て)を当(あ)てる。何(なに)か夢(ゆめ)を観(み)た気(き)がした。


 どうやら私(わたし)は、硝子(がらす)の棺(ひつぎ)の中(なか)で横(よこ)たわっていたらしい。誰(だれ)が私(わたし)を棺(ひつぎ)に入(い)れたのか。そして、あの少女(しょうじょ)の聖骸(いたい)は何処(どこ)に|消(き)えたのか。


 ああ。だが。

 そんなことは、どうでもいい。――私(わたし)の目(め)がおかしくなったのか、或(ある)いは、頭(あたま)がおかしくなったのか。それとも私(わたし)は、未(いま)だに死(し)の淵(ふち)にいて、引(ひ)き伸(の)ばされた時間(とき)の中(なか)で夢(ゆめ)を見(み)て微睡(まどろ)んでいるのだろうか。



 私(わたし)は、王国(おうこく)の大学(だいがく)で支給(しきゅう)される制服(せいふく)を着(き)ていた筈(はず)だ。本来(ほんらい)、流刑(るけい)となる囚人(しゅうじん)には在(あ)り得(え)ない待遇(たいぐう)だが、宮住(みやず)まいの貴族(きぞく)には、私(わたし)に同情(どうじょう)してくれるものが多(おお)く居(い)て、惨(むご)たらしく処刑(しょけい)されなかったのも、そのお陰(かげ)なのだが、彼等(かれら)は、最後(さいご)まで私(わたし)の名誉(めいよ)に気(き)を使(つか)ってくれた。ああ。それが仮令(たとえ)、何(いず)れ訪(おとず)れる自身(じしん)の最期(さいご)に対(たい)する恐怖(きょうふ)と後(うし)ろめたさ故(ゆえ)だとしても。誰(だれ)がそれを腐(くさ)せるだろう。己(おのれ)の死(し)を思(おも)わない人間(にんげん)は、皆(みな)、卑劣(ひれつ)で軽薄(けいはく)だ。大半(たいはん)の民衆(みんしゅう)がそうであるように。


 兎(と)も角(かく)。私(わたし)が着(き)ていたのは、学徒(がくと)が羽織(はお)る長衣(ローブ)であって、貴族(きぞく)の娘(むすめ)が着(き)るような透(す)かしの飾(かざ)り紐(ひも)がふんだんに使(つか)われた衣装(いしょう)などではなかった筈(はず)だ。


 貴族達(きぞくたち)の夜会(やかい)でさえ着(き)ないであろう丈(たけ)の短い裾(すそ)から露(あら)わになっている脚(あし)はあまりに白(しろ)く、そして、細(ほそ)い。いくら私(わたし)が書物(しょもつ)にかまけて、肉体(にくたい)の健康(けんこう)を疎(おろそ)かにしていたとしても、ここまで貧相(ひんそう)ではなかった。いや。そもそも。この身体(からだ)は。男性(おとこ)の身体(からだ)とは決定的(けっていてき)に異(こと)なっていた。きめ細(こま)かい、白(しろ)い肌(はだ)。細(ほそ)く、それでいて、柔(やわ)らかな肉付(にくづ)き。関節(かんせつ)の柔軟(じゅうなん)さと動(うご)きまでもが。


 私(わたし)は、困惑(こんわく)した。背中(せなか)に嫌(いや)な汗(あせ)が溢(あふ)れ、じっとりと濡(ぬ)れる。私(わたし)の肉体(にくたい)は如何(いか)なる作用(さよう)か、少女(しょうじょ)のものへと変(へん)じていた。 


 私(わたし)は這(は)い出(で)るようにして、棺(ひつぎ)から脱(だっ)すると、私(わたし)が死(し)んだはずの場所(ばしょ)を精査(せいさ)した。奇妙(きみょう)な物言(ものい)いになるが、其処(そこ)に私(わたし)の遺体(いたい)はなかった。


 ということは、この体(からだ)は私(わたし)のものなのか。


 血痕(けっこん)すら存在(そんざい)していないのは奇妙(きみょう)なことであったが、そもそもが奇妙(きみょう)なことばかりであったので、そんなことは些細(ささい)なことのように思(おも)えた。


 私(わたし)が着(き)ていた衣服(いふく)や鞄(かばん)はご丁寧(ていねい)に部屋(へや)の隅(すみ)に纏(まと)められていた。一体(いったい)、誰(だれ)が、とは思(おも)うものの、それを知(し)りたいとは思(おも)えなかった。私(わたし)を貫(つらぬ)いた、あの七色(なないろ)の軟体(なんたい)を思(おも)えば、この館(やかた)に真面(まとも)な存在(そんざい)を期待(きたい)する気(き)にはならない。むしろ、明確(めいかく)な、何(なん)らかの意思(いし)を感(かん)じ、私(わたし)は警戒(けいかい)を強(つよ)めた。


 私(わたし)は誰(だれ)に見(み)られているでもなしに、自分(じぶん)の服装(ふくそう)に気恥(きは)ずかしさを覚(おぼ)え、館(やかた)で見付(みつ)けた外套(がいとう)を上(うえ)から羽織(はお)った。私(わたし)の身体(からだ)は、貧相(ひんそう)な少女(しょうじょ)のものに変(へん)じており、元々(もともと)着(き)ていた服(ふく)は大(おお)きさが合(あ)わずに着(き)れそうにもなかった。羽織(はお)った外套(がいとう)でさえ大(おお)きすぎて床(ゆか)に擦(す)っていた。


 私(わたし)は座(すわ)り込(こ)んで、これからどうするべきかを考(かんが)えた。端的(たんてき)に言(い)って、私(わたし)は辟易(へきえき)としていた。諦観(ていかん)と疲労(ひろう)が忌避(きひ)できぬほどに膨(ふく)れ上(あ)がり、死(し)よりの蘇生(そせい)も、不可思議(ふかしぎな)な肉体(にくたい)の変化(へんか)にもそれほど大(おお)きな驚愕(きょうがく)を覚(おぼ)えることも出来(でき)なかった。私(わたし)は俯(うつむ)き、膝(ひざ)を抱(かか)え、外見通(がいけんどお)りの少女(しょうじょ)であるかのように、酷(ひど)く落(お)ち込(こ)んでいた。


 然(しか)し。あの七色(なないろ)の触手(しょくしゅ)。あれは、やはり。この館(やかた)で死(し)んだ者達(ものたち)の霊魂(れいこん)、その成(な)れ果(は)てなのか。魔術(まじゅつ)で鎖(とざ)された館(やかた)。霊的(れいてき)な充満(じゅうまん)。そして、館(やかた)の外(そと)に繁茂(はんも)する硝子樹(がらすじゅ)。水晶(すいしょう)や硝子(がらす)の類(たぐい)、光(ひかり)を歪(ゆが)ませる路(みち)は、霊(れい)を惑(まど)わせる力(ちから)があるという。死者(ししゃ)が怪異(かいい)の類(たぐい)に成(な)る条件(じょうけん)は充分過(じゅうぶんす)ぎる程(ほど)に揃(そろ)ってはいた。


 では、何故(なぜ)、私(わたし)は。ああは成(な)らずに、このような――


 ――黄泉返(よみかえ)り。


 声(こえ)が聞(き)こえた。私(わたし)は瞬時(しゅんじ)に立(た)ち上(あ)がり、短剣(たんけん)を抜(ぬ)いた。幾(いく)ら私(わたし)が愚(おろ)かだとて、二度(にど)は、惑(まど)わない。声(こえ)の主(あるじ)は分(わ)かっていた。幾重(いくえ)にも重(かさ)なる不快(ふかい)な声(こえ)。圧倒的(あっとうてき)な不協和音(ふきょうわおん)。尋常(じんじょう)ならざる音(おと)。空気(くうき)を震(ふる)わさずに伝(つた)わる、欺瞞(ぎまん)の音色(ねいろ)。


「……姿(すがた)を見(み)せろ」


 ――何故(なぜ)。何故(なぜ)。何故(なぜ)。


 狂(くる)ったように、同(おな)じ単語(たんご)を繰(く)り返(かえ)す、霊(れい)の声(こえ)が、段々(だんだん)と、大(おお)きくなっていく。


 ――わたしは。わたしたちは。救(すく)われなかったのに。


 その言葉(ことば)に、私(わたし)は思(おも)わず、息(いき)を呑(の)んだ。怪異(かいい)の言葉(ことば)を真(ま)に受(う)けたわけではない。ただ。その言葉(ことば)は。


 不意(ふい)に、視界(しかい)を強(つよ)い光(ひかり)が覆(おお)う。ぬるりとした、不快(ふかい)な感触(かんしょく)が、手足(てあし)に巻(ま)き付(つ)いていく。細(ほそ)い、紐(ひも)のような何(なに)かが、服(ふく)の下(した)に潜(もぐ)り込(こ)んでくる。私(わたし)は、身(み)を竦(すく)めて、立(た)ち尽(つ)くすことしか出来(でき)なかった。


 何度目(なんどめ)。何度目(なんどめ)の言葉(ことば)だろうか。それを言(い)われたのは。熱病(ねつびょう)に倒(たお)れた商人(しょうにん)の娘(むすめ)を助(たす)けた時(とき)。流行(はや)り病(やまい)に罹(かか)ったスラムの少年(しょうねん)を看病(かんびょう)していた時(とき)。王妃(おうひ)の産道(さんどう)から生(うま)まれ落(お)ち、然(しか)し、産声(うぶごえ)を上(あ)げなかった王(おう)の息子(むすこ)を蘇生(そせい)した時(とき)。そして。あの裁判(さいばん)の時(とき)。誰(だれ)もが。誰(だれ)もが言(い)うのだ。私(わたし)は助(たす)けてくれなかったのに、と。誰(だれ)もが。世(よ)の不平(ふへい)を嘆(なげ)き、その嘆(なげ)きを剣(つるぎ)として、軽率(けいそつ)に他者(たしゃ)に向(む)ける。


 私(わたし)には。その剣(つるぎ)を退(しりぞ)ける力(ちから)はない。

 

 ――女神(めがみ)、女神(めがみ)は、平等(びょうどう)、公平(こうへい)なのではないのか。何故(なぜ)、何故(なぜ)だ。


 不公平(ふこうへい)。不平等(ふびょうどう)。ああ。私(わたし)に何(なに)が出来(でき)るというのか。何度(なんど)、その言葉(ことば)を言(い)われたことか。祖母(そぼ)に連(つ)れられ、大学(だいがく)に入(はい)った時(とき)も。高名(こうめい)な貴族(きぞく)の子息(しそく)であった友人(ゆうじん)と共(とも)に歩(ある)いていた時(とき)も。


「…………」


 世界(せかい)が平等(びょうどう)であるべきだなどと。私(わたし)は思(おも)ったことも、考(かんが)えたこともないが。きっと、私(わたし)には。幸運(こううん)であることも、善(よ)くあることも赦(ゆる)されないのだろう。何故(なぜ)なら、私(わたし)は真(しん)の意味(いみ)で弱者(じゃくしゃ)ではないから。公平(こうへい)を望(のぞ)むことさえ赦(ゆる)されないのだ。


 ――お前(まえ)、お前(まえ)、お前(まえ)。


「それほどまでに、平等(びょうどう)を望(のぞ)むのならば、是非(ぜひ)もない。私(わたし)を殺(ころ)すがいい。それが、お前達(まえたち)の常(つね)なのだから。そうして、全(すべ)てを殺(ころ)さずには居(い)られないのだ。お前達(まえたち)は」


 ――いいや。殺(ころ)さない。お前(まえ)は、贄(にえ)だ。苦(くる)しめ。苦(くる)しめ。苦(くる)しめ。苦(くる)しめ。苦(くる)しめ。


 虚空(こくう)から。天井(てんじょう)から。床(ゆか)から。無数(むすう)の触手(しょくしゅ)が生(は)え出(い)でて、私(わたし)の身体(からだ)に殺到(さっとう)し、絡(から)み付(つ)いてくる。腕(うで)を。脚(あし)を。腰(こし)を。乳房(ちぶさ)を。首(くび)を。締(し)め付(つ)け、その表層(ひょうそう)に浮(う)かぶ粘液(ねんえき)で、私(わたし)の肌(はだ)を穢(けが)していく。


 穢(けが)れた霊(れい)は七色(なないろ)の泥(どろ)を纏(まと)うという。それは、存在(そんざい)の本質(ほんしつ)たる魂(たましい)の融解(ゆうかい)した色(いろ)であり。その泥(どろ)は肉(にく)を溶(と)かし、魂(たましい)を穢(けが)し、やがて、触(ふ)れたものを、同(おな)じ泥(どろ)の塊(かたまり)に変(か)えてしまうのだと。


 不思議(ふしぎ)と、恐(おそ)ろしくはなかった。ただ、悲(かな)しみだけが在(あ)った。


 目(め)を閉(と)じて。何(いず)れ、訪(おとず)れる終(お)わりの時(とき)を待(ま)つ。


 暫(しばら)く、そうして、触手(しょくしゅ)の凌辱(りょうじょく)に耐(た)えていると、何(なに)かが、触手(しょくしゅ)の不快(ふかい)な粘液(ねんえき)ではない何(なに)かが、私(わたし)の頭(あたま)に触(ふ)れたような気(き)がした。私(わたし)は妙(みょう)な既視感(きしかん)を覚(おぼ)え、本能的(ほんのうてき)に頭(あたま)を上(あ)げるのを躊躇(ためら)った。


「頭(あたま)を上(あ)げなさい」


 それは、硝子(がらす)で出来(でき)た鈴(すず)の音色(ねいろ)のように、澄(す)み渡(わた)る声(こえ)だった。


 ――おまえ、なぜ――


 瞬間(しゅんかん)、耳(みみ)を劈(つんざ)くような悲鳴(ひめい)と共(とも)に、全身(ぜんしん)を拘束(こうそく)していた力(ちから)が、消(き)えた。肌(はだ)を蝕(むしば)んでいた不快(ふかい)な感覚(かんかく)も。耐(た)え難(がた)い淫蕩(いんとう)の熱(ねつ)も。


 思(おも)わず膝(ひざ)を突(つき)きながら、私(わたし)が驚愕(きょうがく)と共(とも)に顔(かお)を上(あ)げると、そこには美(うつ)しい薔薇(ばら)の顔(かんばせ)があった。煌(きら)めく黄金(おうごん)の髪(かみ)が、私(わたし)の頬(ほほ)を触(ふ)れて擽(くすぐ)った。棺(ひつぎ)の中(なか)で眠(ねむ)っていた乙女(しょうじょ)が、私(わたし)のことを、その大(おお)きな瞳(ひとみ)で、見下(みお)ろしていた。気(き)の強(つよ)そうな、それでいて、何処(どこ)か、病的(びょうてき)な偏執(へんしゅう)を宿(やど)した、昏(くら)い黄金(おうごん)──。


 少女(しょうじょ)は私(わたし)の顔(かお)を見(み)て、満足(まんぞく)そうに笑(わら)うと、急(きゅう)に顔(かお)を近付(ちかづ)けて、そのまま私(わたし)の唇(くちびる)を奪(うば)った。


「ん……、あ、ふ、ぁ……」


 突然(とつぜん)の接吻(ベゼ)に私(わたし)は酷(ひど)く狼狽(ろうばい)して、少女(しょうじょ)を押(お)しのけることを忘(わす)れてしまった。少女(しょうじょ)は、乙女(おとめ)の細腕(ほそうで)とは思(おも)えぬ力(ちから)で私(わたし)を床(ゆか)に抑(おさ)え付(つ)け、私(わたし)の口内(こうない)を好(す)き勝手(かって)に蹂躙(じゅうりん)した。少女(しょうじょ)の舌(した)が歯(は)を押(お)し退(の)けて入(はい)り込(こ)み、私(わたし)の口蓋(こうがい)をなぞり、舌(した)に絡(から)み、歯肉(しにく)を擽(くすぐ)った。


 私(わたし)の身体(からだ)は、先(さき)の触手(しょくしゅ)に玩(もてあそ)ばれた余熱(よねつ)故(ゆえ)か、いやに敏感(びんかん)で、少女(しょうじょ)の舌(した)による愛撫(あいぶ)の度(たび)に四肢(からだ)が跳(は)ね上(あ)がり、それを少女(しょうじょ)はそれを尋常(じんじょう)ならざる力(ちから)で抑(おさ)え込(こ)んでいた。


 少女(しょうじょ)の身体(からだ)から伝(つた)わる熱(ねち)が毒(びやく)のように私(わたし)の身体(からだ)に回(まわ)っているのを感(かんじ)じた。下腹部(かふくぶ)の熱(ねつ)と、湿(しめ)り気(け)に私(わたし)は困惑(こんわく)して、必死(ひっし)に脚(あし)を動(うご)かして少女(しょうじょ)を退(の)けさせようとした。


 私(わたし)の必死(ひっし)さを哀(あわ)れんだのか、少女(しょうじょ)は漸(ようや)く、私(わたし)から顔(かお)を離(はな)すと、愉快(ゆかい)そうに笑(わら)った。


「ああ、貴方(あなた)、感謝(かんしゃ)するわ。私(わたし)を解(と)き放(はな)ってくれて」


 私(わたし)は荒(あら)い息(いき)を整(ととの)えながら少女(しょうじょ)の言葉(ことば)の意味(いみ)を考(かんが)えた。やはり人間(にんげん)ではなかったのか。いや。そんなことは分(わ)かり切(き)っている。如何(いか)なる術(すべ)か、あれだけの霊魂(れいこん)を一瞬(いっしゅん)で散(ち)らしたのだ。では、彼女(かのじょ)は一体(いったい)、なんだというのか。星(ほし)の女神(めがみ)に由来(ゆらい)する場所(ばしょ)に、封(ふう)じられていた、彼女(かのじょ)は──


 何(なん)であれ。私(わたし)は少女(しょうじょ)の本質(ほんしつ)が邪悪(じゃあく)なものでないことを願(ねが)った。勿論(もちろん)、願(ねが)ったということは、つまり、私(わたし)は微塵(みじん)も彼女(かのじょ)が善良(ぜんりょう)な存在(そんざい)だとは思(おも)ってないということだが。


 少女(しょうじょ)は私(わたし)が沈黙(ちんもく)しているのを見(み)て、不機嫌(ふきげん)そうに眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。少女(しょうじょ)は、そのしなやかな指先(ゆびさき)を、私(わたし)の頬(ほほ)へ伸(の)ばし、撫(な)でた。私(わたし)は思(おも)わず首筋(くびすじ)が熱(あつ)くなるのを感(かん)じ、己(おのれ)の浅(あさ)ましさを恥(は)じる他(ほか)なかった。


「貴方(あなた)、どうせ碌(ろく)な人間(にんげん)ではないのでしょう? こんな場所(ばしょ)に来(く)るくらいだもの」


 私(わたし)が曖昧(あいまい)に頷(うなづ)くと、少女(しょうじょ)は何(なに)が面白(おもしろ)いのか、軽薄(けいはく)な笑(わら)い声(ごえ)を上(あ)げて、私(わたし)の額(ひたい)に触(ふ)れた。鋭(するど)い痛(いた)みが走(はし)り、思(おも)わず顔(かお)を逸(そ)らす。


「忌々(いまいま)しい印(しるし)があるわ」


「印(しるし)? 印(しるし)など……私(わたし)には……」


「あるわ。貴方(あなた)の中(なか)に」


 私(わたし)は夢(ゆめ)の中(なか)での出来事(できごと)を朧気(おぼろげ)ながら思(おも)い浮(う)かべ、直(す)ぐに消(け)した。代(か)わりに少女(しょうじょ)を横(よこ)に退(の)けて、立(た)ち上(あ)がる。少女(しょうじょ)は特(とく)に抵抗(ていこう)もせずにあっさりと横(とこ)に退(ど)いた。少(すこ)しだけ、惜(お)しいと思(おも)った自分(じぶん)を、私(わたし)は恥(は)じた。


 私(わたし)は、少女(しょうじょ)の顔(かお)を直視(ちょくし)出来(でき)ずにいた。私(わたし)は少女(しょうじょ)の薔薇(ばら)の顔(かんばせ)に心(こころ)を乱(みだ)されることがないように、視線(しせん)を逸(そ)らしていたが、哀(あわ)れな私(わたし)は、少女(しょうじょ)の白(しろ)い四肢(しし)が目(め)に入(はい)るだけで、心(しん)の臓(ぞう)が悪戯(いたずら)に跳(は)ねるのを禁(きん)じ得(え)なかった。


「あれは……夢(ゆめ)だった。そんなことより、私(わたし)は、帰(かえ)らなければ。館(やかた)の……入口(いりぐち)の扉(とびら)の開(あ)け方(かた)を知(し)っているか?」


 私(わたし)は、声(こえ)が不自然(ふしぜん)に震(ふる)えていないか、心配(しんぱい)になった。少女(しょうじょ)は何(なに)も答(こた)えずに肩(かた)を竦(すく)める。暫(しばら)くの間(あいだ)、沈黙(ちんもく)が私達(わたしたち)を支配(しはい)した。何故(なにゆえ)私(わたし)は直(す)ぐにその場(ば)を立(た)ち去(さ)らなかったのか。自分(じぶん)でも分(わ)からない――などという欺瞞(ぎまん)を口(くち)にするつもりもない。私(わたし)の心(こころ)は既(すで)に、冷静(れいせい)ではなかった。


「その姿(すがた)で帰(かえ)るの?」


 尤(もっと)もな意見(いけん)だと思(おも)ったが、それでも、この館(やかた)に閉(と)じこもっているわけにはいかないだろう。私(わたし)は私(わたし)に起(お)きた肉体(にくたい)の変質(へんしつ)、或(ある)いは、蘇生(そせい)について、少女(しょうじょ)が何(なに)か知(し)っているのではないかと、期待(きたい)して、訊(たず)ねた。


「……元(もと)の姿(すがた)に戻(もど)れるのか」


 少女(しょうじょ)は嗤(わら)った。

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