8話 太刀筋
<あらすじ>
ギャンブルで身を持ち崩した三十路女。目覚めると彼女は赤ん坊。そしてそこは異世界でした。
特別な力を授かるでもない彼女の異世界生活。前世から持ち越せたのは大工としての知識だけだった。
「今度こそ、わたしは自分の家を建てる!」
8
空を流れる雲の動きが速い。上空は相当な風だろう。風向きから数時間後の天候を予測できる。
こんなことでも「賢い子だ」と両親は褒めてくれる。
雲の方が止まっている、そう考えてみると地面が、自分が動いている錯覚に陥った。今度は自分が止まっている、と意識してみると、空が再び動き出した。対象を自分に置いたり空に置いたり、何度も気紛れに行き来させる。
そうしているうち、今の自分が本当で、「前世の記憶」とやらが妄想なのか、と疑問が湧いた。おや、もしやこの三十路女の意識は狂ったクラリスの妄想──?
いやいや、古い意識を辿ると母の胎を出た時に至る。とはいえ記憶は古くなるに従って曖昧になっている。だが、パチンコ台のレバーが震える感触やら、引落し不履行のメール、奨学金や国民年金の督促状は? こんな妄想あり得ないだろ。
うん、今のところ転生を疑う余地は無い。無いと思う。思うんだけどな──
「クラリス、待ったか?」
「いや、それ程じゃない」
わたしが身を起こすとアーロンが手を差し出した。それを掴んで立ち上がる。
この世界に来て六度目の春、わたしは五歳になった。
「それか、今度の木剣は──って、お前指から血が出てる」
「ああ、ちょっと棘が刺さったから、裂いて取った」
アーロンはわたしの左親指の傷に気付き、その手を取った。
「いつもながら滅茶苦茶だな、本当に」と呟きながら目を閉じる。
「אבינו שבשמים האדיר, יתברך שמך. רצונך ימלא את הארץ וכולם ידעו אותו. אנא שלח את רוח הקודש, חונן אותנו בכוח ריפוי, והענק לו את הכוח לקום שוב.」
ぽうっと指の辺りが明るくなり、傷が塞がってゆく。わたしは口を尖らせた。
「何でアーロンに適性があるのさ」
「しょうがないだろ、人には──」わたしはそれを遮り「人には向き不向きがある、でしょ? 分かってるよ!」と眉間に皺を作った。
昨年わたしが何度やっても駄目だった適性検査をアーロンが戯れで試した。それが上手く行ったのだ。
大層喜んだ彼の父親は「魔法の教師をつける」と言い出し、アーロンの希望でマグダラが選ばれた。
アーロンの父親、ガマリエルさんはこの穀倉地帯を統べる豪農なので、マグダラは割の良い手間仕事を得たと喜んだ。それで自然、彼と過ごす時間は増えた。
「クラリスは全然家にいないじゃないか」
そう言うので、わたしはこの上なく失望した。そんなことも分からないのだろうか。馬鹿馬鹿しくて説明すらしたくなかったので、新しい木剣を振ってみた。
──ヒュンッ
悪くない。今回はバランスを手元に集め、先を薄くした。やり過ぎると刀身が弱くなる。
「お、おい、恐ろしく速い太刀筋じゃないか」
アーロンが驚くのも無理はない。普通の木剣はこんな速さでは振れない。この木剣では受け太刀も出来ないだろう。見た目だけだ。
「こんな貧弱な木剣じゃあケレブ(野犬)も倒せないよ、折れちゃうから」
「じゃあ、何に使うんだよ」
「人間の子供相手なら、これで充分だ」
「ただいま帰りました、母様」
「おかえりなさいクラリス。アーロンと会えた?」
母はメトシェラを抱いたまま振り返った。乳をやっているところだった。口の中で舌先が勝手に動き前歯の裏側をなぞった。
アーロンの折れた前歯もあれから直ぐに生え変わった。あの欠けた歯を思い出すことなんて近頃滅多となかったのに。
「会えました。あの怪我、治してくれました」
そう言って左手の親指を曲げ伸ばししてみせた。
「まぁ! ちゃんと使えているのね。感心感心」
「父様はまだ工房?」
「そうね、頼まれた椅子に手こずってるみたいなの」
わたしは外そうとした鞘ベルトを締め直した。
「少し手伝って来ても良いでしょうか」
「どうぞ、行ってらっしゃい。あなたが研ぎを手伝うと捗るのよね。それにお父さんも喜ぶわ」
会釈して家を出ると、工房がある集落の広場へ向かった。あの公共井戸がある広場のことだ。
ファリス教徒の演説は見当たらなかった。夕方だからか、市の立つ日ではないからか。彼らは人通りの多い日を狙って公共演説をする。
アーロンが殴られたあの日は、幼い信徒への指南だったらしい。それ以降は市の立つ月曜と木曜以外に演説を見た試しは無かった。
「父様、お手伝いに来ました」と工房の扉を開けると、サムソンは嬉しそうに振り返った。
わたしはいつも通り、切れ止んだノミやのこぎりを順に研いでゆく。
「お前が来てくれたなら十人力だ、日暮れまでに帰れそうだよ」
わたしの本を読んで頂いてありがとうございます。
一日一話更新して行きます。
毎朝七時の更新を心がけます。
異世界語として用いられているのは実はヘブライ語なので翻訳検索していただければ意味が解るのですが、あまり深い意味は有りません。
言語学者さんやヘブライ語に自信ニキの方にすれば、もしかしたら文法や意味が間違っているかも知れませんがご容赦ください。




