5話 初めて見た顔は
<あらすじ>
ギャンブルで身を持ち崩した三十路女。目覚めると彼女は赤ん坊。そしてそこは異世界でした。
特別な力を授かるでもない彼女の異世界生活。前世から持ち越せたのは大工としての知識だけだった。
「今度こそ、わたしは自分の家を建てる!」
5
牧草地の只中にある道を歩く。羊を放牧する牧夫や駆け回る犬の姿は見えるが、機械の類は見当たらない。煙突も工場も自動車も視界に入らない。
まぁ、魔法がある世界だもんな、そりゃそうか。でも、この服は布製品だ。機織り機みたいなもんはあるのだろう。サンダルの底だってゴムっぽい。樹脂加工? どうやっているのだろう。
第一、サムソンの道具は金属製だ。鉄の加工なんか手作業でどうやるんだろう。
「お前よぉ、どこ行くんだよ」
アーロンは小石を蹴っ飛ばしながらついてくる。こいつは何が目的なんだろうか。
「いちのたつひろば」
「イチノタツヒ……ああ、市のたつ広場、公共広場な。でも今日は市なんか出てないぞ?」
「いいの」
細かい説明は面倒臭い。なんでこいつに自分の顔が見たい、なんて言わなきゃならないのか。
「こんにちは、アブネルさん」
「おお、アーロン。少し暖かくなったな」
大麦の青葉が雪を割って顔を出す。それを農夫が踏んでいた。彼らとアーロンは顔見知りらしかった。
「なんで、ふむのか」
「麦踏も知らないのか。ああやって踏んだら麦が強くなるんだよ」
この高原は穀倉地帯なのだろう、牧草地を越えた先には広大な麦畑が広がっていた。その向こうに建物が集まる集落が小さく見えた。
「公共広場が見えたぞ。あんなとこまでひとりで行っちゃ駄目だろ、チビ助」
「またいった、ちびすけちがう、のに」
このガキは。わたしは井戸に行きたいだけなのに。いや、考えたら家の水瓶でも良かったんじゃないか?何でわざわざこんな……まぁ退屈してたんだけどな。
わたしたちの横を荷車が呑気に追い越してゆく。
「う、うあ!」
幌をかけた荷車を曳く生き物に度肝を抜かれ、思わず声が漏れた。何と、駝鳥だ。
見上げる程の、と言っても自分のサイズが把握出来ていないだけか? 見たところ三メートルはありそうだが。灰色の羽毛の巨躯には革製の鞍が掛けられている。大きな頭の頂点は銀色の鬣が風に靡く。アーモンド色の眼は案外優しい感じかも。白い嘴が丸っこくて、そこに轡を噛んでいる。
長手綱を握った御者が帽子を取った。
「アーロン、こんにちは。お父様はご健勝かな」
「ジェトロさん、こんにちは。父様は相変わらずです」
「あーろん、と、とりだ。おおきい」
「ああ、ケルビムだ。初めて見るのか」
彼は愉快そうに笑った。馬鹿にされてるような気はしなかった。それで、釣られて「ははは」と声を出した。
ジェトロさんが手綱を緩めたのでケルビムの脚がよく見える。馬と逆に曲がる関節が不思議な動きだ。鱗が黄色くて何故か指が二本しかない。人差し指と……親指?
わたしが両手の指を使ってケルビムの脚の動きを真似ているうち、いつのまにか広場に入っていた。
そこは砂漠のバザールのような雰囲気がした。タープの下に果物箱やら獣肉やらを並べた商人がいた。祭司が大袈裟に身振り手振りで演説し、小さな人集りが出来ていた。
その少し先、通路が交わる場所に公共井戸がある。目的地だ。わたしは小走りで駆け出した。それがいけなかった。
「こいつ、ラビが説法なさってるのに! 何て不敬なんだ!」
小綺麗な衣服の子供数人が顔を赤くして歯を剥いたとき、わたしはしまった、と後悔した。これは何か禁忌を犯したっぽい。
「チビ、何とか言えよ!」
太った子供がわたしの背中を突き飛ばす。子供の身体は柔らかいから、くにゃっと曲がって勢いはいなされる。でもバランスが崩れて路地に転がった。
反対側にいた脚の長い子供の方へ転がったわたしの顔にサンダルの底が食い込む。鉄っぽい味が鼻の奥で弾けると、目が開けられなくなった。涙が流れ出す。
こ、これはやりすぎじゃなかろうか。
それでも、わたしは何も声を出せなかった。こういう時、何て言うんだっけ。ごめんなさい、かな。謝るんだろうか……ちょっと混乱して、息も荒くなっていた。頭がくらくらした。
こんなこと、昔もあったな。学校か? 現場でか? 周りを取り囲まれると身が竦む。
「何で黙ってんだチビ、口がついてないのか?」
「頭が駄目なんだろ、馬鹿なんだ」
「ビビってんのか、震えてるぜ」
駄目だ、わたしの口はこんな時役に立たない。言葉が未熟とかじゃなくて、三十路女だったときも同じだった。いざって時にこの舌はもつれて何も言えないんだ。
情けなくて、恐ろしくて目が開けられない。
──お母さん、助けて!
「おい! お前らいい加減にしろよ!」
アーロンの声だった。涙で塞がった瞼をこじ開けると、突き飛ばした子供にアーロンが掴みかかっているようだった。滲んだ視界の中で、子供らがもみくちゃになり、小さい子が右に左にと弾かれる。
その小さい子がアーロンだと気付いた。彼は殴られ続け、倒れた後も何度も蹴られ続けた。
「お、おい。こいつガマリエルさんとこの子じゃねえか」
ひとりの子供がそう言うと、暴力の手が止んだ。それで「弱い癖に歯向かうからだ、馬鹿」と捨て台詞を残して彼らは逃げ出した。
石畳の上に倒れたアーロンの方によろよろと歩み寄った。わたしの鼻からも血がぽとぽと垂れていたけれど、うつ伏せになった彼の顔のあたりには血溜まりが出来ていた。
「あーろん、あーろん」
わたしの声で彼はもぞりと身を起こした。
「い、痛え。大丈夫かクラリス」
そう言った彼は前歯が二本折れていた。唇の横が裂けて痛々しかった。なのに、大丈夫かって?
大丈夫かって?
「あーろん……あーろ……」
彼の顔についた泥を掌で撫でながら、わたしは泣いた。大丈夫じゃあない。だって、歯が折れてるもん。
「い、井戸で……水を……」
わたしは慌てて井戸の方へ足を向けた。水汲み場にいたおばさんが手桶を差し出す。
「あ……ありがと」
桶の水面に、自分の顔が映っていた。初めて見たわたしの顔は、くしゃくしゃに泣き崩れた顔だった。
わたしの本を読んで頂いてありがとうございます。
一日一話更新して行きます。
毎朝七時の更新を心がけます。
異世界語として用いられているのは実はヘブライ語なので翻訳検索していただければ意味が解るのですが、あまり深い意味は有りません。
言語学者さんやヘブライ語に自信ニキの方にすれば、もしかしたら文法や意味が間違っているかも知れませんがご容赦ください。




