2話 コロコロ転がって、落ちる
あらすじ
ギャンブルで身を持ち崩した三十路女。目覚めると彼女は赤ん坊。そしてそこは異世界でした。
特別な力を授かるでもない彼女の異世界生活。前世から持ち越せたのは大工としての知識だけ。
「やってやろうじゃん、現代人の知識なめんなよ。
今度こそ、わたしは自分の家を建ててやる!」
2
半年ほどが過ぎると、わたしは這い這いで家の中を移動できるようになっていた。住居は二階建てというのだろうか、不思議な作りだ。床は絨毯っぽい織物が敷いてあるから、膝を怪我することもない。
そういえば膝が痛くなったりしないな。軽いからか? それとも赤ん坊の膝の皮膚って丈夫なのか?
膝頭に触れてしげしげと確かめているうち、誰かにふわっと抱き上げられる。親しみのある匂い。
顔に赤い髪がかかってくすぐったい。少し香ばしい体臭と香油の混じった匂いだ。
「ヒネ アットゥ、クラリス、カン ハイイットゥ?」
何言ってるか、さっぱり分からない。でもクラリスって何度も出てくるから、多分わたしの名前だ。わたしクラリスか。
お母さん、と心の中で呟いてみる。わたしが中学生の頃に母は病死した。癌だった。
近頃少し痩せたなと思っていたら、突然入院して、そのまま家に帰らなかった。
当時、反抗期真っ盛りなわたしは、母の病室にとうとう行かなかった。最初は高を括っていた。どうせすぐ帰ってくる、と。
でも入院が二ヶ月目に入ると、さすがに少しおかしいって分かった。もしかしてやばいのか、と。
ある夜、トイレに起きたら父がひとりで飲んでいた。わたしに気付き、慌てて顔を隠すのを見て理解した。
ああ、駄目なんだ。お母さん死んじゃうんだ。
そう思ったけれど、病室には訪ねなかった。だって、どんな顔をすればいい?
お母さん、死んじゃいやだと泣いたり?
いやいや。もう中学生なのに、そんな。
でも今なら分かる。多分わたしは怖かったんだ。母親に迫る死を見るのが。
怖かったんだ、それに向き合うのが。だって、それと対面すると、本当にお母さんが死んじゃう、そんなふうに感じて目を背けたんだ。
「オイ、マ カラ?」
優しい声でわたしの頬を撫でる手。その指を握ってみる。自分の白い手と彼女の浅黒い指が触れる。その接点から視界に色が溢れる。
お母さん──
わたしはまた泣き叫んだ。お母さん、ごめん。あの時、病室でこうすれば良かったんだ。母の手を握りしめ、お母さん死んじゃいやだと駄々をこねればよかったんだ。
あの日、母はどんな顔で闘病していたのだろう。どんな顔で逝ったのだろう。
葬儀の日、わたしは制服姿でスマホを弄っていた。当時最新のスマートフォンで、取ったアプリに熱中した。機体を傾けるとコロコロとボールが転がるゲーム。
「何あの子、母親が亡くなったってのに……」
親類のヒソヒソ話に、聞こえないふりをして画面を睨む。そんなわたしを父は黙って放っておいた。冷たい娘と思ったろうか。その日の父の顔も思い出せない。きっと画面だけを見続けていたんだ。
「お前、いい加減にしろよ」
睨みつける兄の顔。その語勢に竦み一瞬止まったが、再び手を動かし、ボールを転がしてゆく。わたしというボールをコロコロ転がして、穴に落ちる。真っ暗な穴に吸い込まれるように落ちてゆく。
気がついたら、部屋にはわたししか居なくて、母の棺があった場所はもうがらんとしていた。どうしたらいいか分からなくて、スマホの電源が落ちるまでそこでゲームを続けたあと、部屋に戻って布団を被った。
お母さん、お母さん
「ホヤァッ! ホヤァッ!」
「オイ、イェシュ カキ?」
母がわたしの腰に巻かれた布を開くと、排泄物の臭いが部屋に漏れた。いつの間にか便をしていた。やだ! 何で!
彼女は瓶の水を股にかける。冷たいッ!
身を捩って逃れようとすると、母は吹き出した。軽くわたしを持ち上げ、腰布を取り替える。
「アニ オヘヴェットゥ オタハ、クラリス」
頬に口付ける彼女。言葉の意味はわからないけど、これはきっと「愛してる、クラリス」だ。
わたしは、やり直すんだ。今度こそ、本気で。




