15話 新しい肌着
<あらすじ>
ギャンブルで身を持ち崩した三十路女。目覚めると彼女は赤ん坊。そしてそこは異世界でした。
特別な力を授かるでもない彼女の異世界生活。前世から持ち越せたのは大工としての知識だけだった。
「今度こそ、わたしは自分の家を建てる!」
二章
三年の月日が流れ、わたしは八歳になった。だが、父サムソンは戻って来なかった。まだ母マグダラの手がかりは何も無いままだ。
第三の月に入ると、陽射しが肌を刺すようになった。いつの間にかマグダラが織ってくれた肌着では脛が出るようになってしまっていた。
「この肌着はもう合わないので、新しいのを仕立てましょうか」
ミハルの言葉を心が少しだけ拒んだ。言葉に詰まるわたしのことを容易に気取った彼女は「それは仕立て直してメトシェラに」と言った。
「新しい肌着を作って貰うなんて、贅沢なのでは?」
指先をもじもじさせて問う。
「旦那様の使用人が見窄らしい姿では失礼に当たりますから」
そう言われては断れない。「ではお願いします」と答える。ミハルの顔が少し緩んだ気がした。
彼女は自分の肘から先を使って背丈を測り始めた。
「3キュビト。少しだけ大きく作りましょう。あなたはもう少し大きくなりそうだから」
雪解けの泥濘はとうに乾き、道端には名も知らぬ花が群れて咲いている。風が吹くたび金色に色づいた麦畑が波のようにうねった。
その日も、わたしはアーロンの隣で蝋板を抱えていた。
教師は羊皮紙の地図を指し、ガリアの地を流れる川の名を挙げてゆく。アーロンときたら窓の格子越しに外ばかり眺めている。
「アーロン坊ちゃん。今申し上げた川の名を」
「え、あ……ええと」
教師は深い溜息をついた。
「刈り入れの祭りが待ち遠しいのは分かりますがね」
わたしは蝋板にセイラン川と刻み、横目でアーロンを見た。九つになった彼が変わったのは背丈くらいだ。
「……クラリス、ちょっと見せろよ」
「坊ちゃん」
しゅんと肩を落とすアーロンが可笑しくて、わたしは蝋板で口元を隠した。
算術、歴史、律法、この地の成り立ち。教師の問いには、アーロンと同じように答えなければならない。わたしを自分の子と同じように学ばせてくれる、ガマリエルの親心だ。
アーロンと過ごす時間は増えたが彼と連れ立って外へ遊びに行くことは無くなった。朝は授業、昼からは屋敷の仕事、夕方にまた授業。
それがいいことなのか、わたしには分からない。ただ、世界を知る方法が、自分の目から授業に移っただけだ。
それに、字を覚えられた。
屋敷には書庫がある。壁の本棚には皮の背表紙が並んでいる。
「俺、あそこ苦手なんだよな。インクの匂いだけで眠くなるよ」
アーロンはそこに近付こうともしない。分かるよ。前世のわたしだって本なんか読まなかった。活字を見ると三行で瞼が落ちた。
でも、必要があれば話は別なんだよ。図面を読めなきゃ家は建たない。仕様書が読めなきゃ材料も揃わない。仕事で使う知識なら、嫌でも覚えられるんだ。
清掃がてら、棚の本はあらかた開いた。この地の歴史、律法の注解、薬草の図譜、そして宗教。
祭りが近づくにつれて、屋敷はにわかに慌ただしくなる。
畑では小麦の刈り入れが始まっていた。農夫たちが一列に並んで鎌を振るい、刈った麦を束ねてゆく。日が昇る前から日が落ちるまで、畑から人影が消えることはなかった。
ただ、畑の隅だけは刈り残されている。隅まで刈り尽くしてはならない、落ち穂を拾ってもならない。それは貧しい者と寄留の者のために残しておくのだ。
屋敷の中では、ミハルと女中たちが新しい小麦を挽き、パンを焼く支度に追われていた。わたしも石臼の把手を回し続けた。五つの頃は両手でぶら下がるようにして回していたのが、今は片手で回せる。
祭りの当日、村の者はそれぞれの畑で一番に実った穂を籠に盛り、公共広場に集まった。貧しい家の籠は柳で編んだもの、豪農の家の籠には銀の縁取りがある。
行列の先頭には、角に金箔を貼り、オリーブの冠を戴いた牡牛。笛の音に合わせて、行列はゆっくりと広場を練り歩く。選ばれた者たちは、このまま都の神殿まで初穂を携えて上るのだという。
夕方にはガマリエル邸の中庭で宴が開かれた。主人は屋敷の者だけでなく、刈り入れを手伝った農夫たち、村の寡婦や孤児、流れ者まで分け隔てなく招いた。
「この祭りは、皆で喜ぶものだからな」
焼きたての新麦のパン、羊の肉、干し無花果に蜂蜜。給仕の合間に目をやると、メトシェラがタビタの手を引いて、卓の間を駆け回っていた。二人とも口の周りを蜂蜜でべたべたにしている。
あの子はもう、マグダラの顔を覚えていないだろう。
マグダラがいたら、きっとこの輪の中で笑っていた。
サムソンは今、どこで麦の穂を見ているだろう。
宴の喧騒から少し離れて、ミハルが中庭の隅に座っていた。
わたしが隣に腰を下ろすと、彼女は珍しく自分から口を開いた。
「三年、一日も欠かさず剣を振っているわね」
見られていたのか。わたしは頷いた。
「夫も、剣士でした」
でした、という言い方に、わたしは息を止めた。
ミハルが寡婦であることは知っていた。けれど、彼女の口から夫の話を聞くのは初めてだった。
どうして亡くなったのか、彼女は言わなかった。ただ、幼子を抱えて行き場を失っていたところを、レア様が拾ってくださったのだと。アーロンとタビタの母親、ガマリエルの三番目の奥様だ。
その幼子の姿を、わたしは一度も見たことがない。聞かなくても、分かることはある。
ミハルは袖口を指で整え、宴の灯りの方へ目を向けた。その横顔を、炎の影がゆっくりと揺らしていた。
わたしの本を読んで頂いてありがとうございます。
一日一話更新して行きます。
毎朝七時の更新を心がけます。
異世界語として用いられているのは実はヘブライ語なので翻訳検索していただければ意味が解るのですが、あまり深い意味は有りません。
言語学者さんやヘブライ語に自信ニキの方にすれば、もしかしたら文法や意味が間違っているかも知れませんがご容赦ください。




