10話 誰にも教えるもんですか
<あらすじ>
ギャンブルで身を持ち崩した三十路女。目覚めると彼女は赤ん坊。そしてそこは異世界でした。
特別な力を授かるでもない彼女の異世界生活。前世から持ち越せたのは大工としての知識だけだった。
「今度こそ、わたしは自分の家を建てる!」
10
雑巾を力一杯搾ると、両掌が真っ赤に腫れて痛痒くなる。早朝の冷え切った工房に白い呼気が浮かぶ。
わたしが椅子をひとつひとつ拭き上げ、サムソンが荷台で待つシャムガルさんの従者に渡してゆく。総無垢材の椅子はわたしの力で運ぶのは到底無理だ。この身体は全く非力だ。
椅子を積んだ荷車が工房から遠ざかるのをサムソンと見送る。彼はこのひと月ずっとあの椅子を手掛けていたので何だか名残惜しかった。不思議だ。何ヶ月かかけて仕上げた家の引渡しにそんなことを思った試しはなかったのに。
──クションッ!
「クラリス、汗が冷えたんじゃないか?」
サムソンは膝をついてわたしの顔を拭いた。「平気」と答える。
「俺だって寒い。温かいものを飲もう」
彼はそう言って工房内に戻り、炉に火を入れた。鍋の水にエゾブの葉を散らすと爽やかな香りが部屋を満たした。彼はこのハーブティーをいたく気に入っている。
湯が沸くまで、わたしは例の鉋の刃を研ぎ始めた。本当は砥石の面を直してから研ぎたいところだが、自分のものではないので言い出しにくい。
研ぎ上がった切先を窓の陽光に翳してみるが、やはり角が丸い。砥石の中央が減っているのだ。
「父様、わたし砥石が欲しい」
「それを使えば良いだろう」
サムソンが不思議そうな顔で言う。しかしわたしは食い下がった。
「この削り具は切先が真っ直ぐでないと綺麗に削れません。だから毎回砥石の面を直したいのです」
「そんな勿体無い使い方を……」
頭を掻く彼にわたしは訴えてみた。
「自分でとってきますから。どの川で取ったんですか?」
「ひとりで行かせるには少し遠いから、このあと一緒に行こうか」
「やった!」
防寒具を取りに家に寄ると、マグダラは驚いて声を上げた。
「河原に砥石を取りに行くですって? 今は第一の月なのよ? 凍える寒さよ! お止しなさいな」
サムソンは足巻きを履きながら言う。
「いや、かえって今の方が良いだろう。翌月になれば暖かくなるが野獣も活発になるんだから」
「それは、確かにそうだけど……」
マグダラは不満顔だ。
それよりも月の数え方がよくわからないな。後で聞いてみよう。
「水には多分入りません、母様」とわたしが言うと「あら、そうなの? それを先に言いなさいよ」と顔を明るくした。実際にどうかは知らないが、それでいい。
「マグダラ、賃金を受け取ったので金壺に」
サムソンはシャムガルさんの従者から貰った皮袋を差し出す。それを受け取り彼女は「ご苦労様です」と笑顔になった。
外套だけでは寒いので、マグダラはわたしの首にストールを巻きつけ「無理してはだめよ」と何度も何度も口付けた。
家を出て集落の広場と逆の方に向かった。牧草地に雄牛と雌牛が群れていた。
「あれがタウロス(雄牛)、こちらはダマリス(雌牛)」
「そうそう。ダマリスは乳を出すし仔牛を産むんだ」
「あれは、アエトス(鷲)?」
「──いや、あれは……グリュプスかな」
グリュプス、つまりグリフォン。いわゆるモンスターだ。本当かどうかは怪しいものだが。その鳥は山脈の彼方へ飛び去ってしまったので本当のところはわからず終いだ。
「父様、グリュプスは人を襲う? 危ない?」
サムソンはからからと笑い「滅多と人の方に来たりはしない。でもこちらが手を出した時は、確かに危ない」と片眉をあげてみせた。
「と、父様! やはりアエトスだったのでしょう?」
「さぁ、どうだろうな」
「もう! どっちなのですか?」
わたしの膨らんだ頬を見る彼は楽しそうだった。だからもうどちらでも良くなってしまった。
河原に着くと、わたしたちは荒地の道を離れ川沿いを上流へと登っていった。パピルスが生い茂り水面が見えない。高いものはサムソンの身の丈をも超す。
「すごい、高い」
「このパピルスを漉いて、紙を作るのだぞ」
「父様は何でも知っていますね、すごい」
サムソンは鼻を膨らましてあれこれ説明してくれた。少し褒めすぎたかも、と苦笑いする。でも不思議とちっとも嫌じゃなかった。
少しずつサンダルの下が粘土質に変わってゆき、茂みが切れて河原に降りられる場所へと出た。
「ここで砥石になる岩板を探そう」
川床が粘板岩になっている。ふと見上げると土が崩れて山肌が露出している。
「う、うわぁ……」
思わず感嘆の声が漏れた。サムソンはそれを気取り、得意気に指差した。
「あの積み重なった岩の層を見よ、泥が岩になった証拠だ」
そこには地殻変動で地層が剥き出しとなっていた。太古のものだろう。確かにここで砥石が手に入りそうだ。
「すごいです、父様がここを見つけたのですか?」
「ふたりだけの秘密だぞ?」
破顔したわたしは「誰にも教えるもんですか!」とはしゃぎ、手頃な石を拾っては擦り合わせ、材質と粗さを確かめていった。
「お前、まさか砥石の良し悪しがわかるのか?」
わたしはぽかんとして答える。
「ざらざらの石では刃物を荒らすだけでしょう、研いだ時に出る泥がぬるぬるするのが良い砥石では?」
サムソンは口笛を吹いた。
「勘所が良い。本当に不思議な子だな」
暫く河原で石を拾って、擦ってを繰り返すうちに腹が減ったので、帰る事にした。
帰路で自分がこの上なく上機嫌な理由が、サムソンを独り占めしたからだと気付き、急に気恥ずかしくなって、繋いでいた手を慌てて離した。
わたしの本を読んで頂いてありがとうございます。
一日一話更新して行きます。
毎朝七時の更新を心がけます。
異世界語として用いられているのは実はヘブライ語なので翻訳検索していただければ意味が解るのですが、あまり深い意味は有りません。
言語学者さんやヘブライ語に自信ニキの方にすれば、もしかしたら文法や意味が間違っているかも知れませんがご容赦ください。




