3 暗い水の底から
新しく始めた仕事が、いくらか軌道に乗った。
サンジはひさびさに『マーサ』を訪れる気になった。
カウンターの端に腰かけ、明子の顔、彼女の背後の棚、綺麗に並べられた洋酒の瓶を眺める。
「何年も顔を出さないから、どうしたかと思っちゃった」
明子の、腰まで伸びている黒い髪、光を湛えた大きな眼、昔のままだ。
失業保険の給付は使い切っていて、わずかな蓄えも底をつきかけていた。
サンジはひさびさに見知った街を散歩しながら、知り合いに挨拶して回った。
千駄木、本郷から築地、銀座あたりまで。
「少し身体の具合が悪かったんですが、治りましたので……」
そうサンジが説明して、深く詮索する人はいなかった、みんな大人だ。
とりあえずその時は、以前つき合っていた会社のひとつから仕事をもらうことができた。
(人間が生きていくっていうのは、それだけですごいことなんだろうな)
(人に会えて、働く場所があって、メシが食えて……)
周囲の人たちに感謝する気持ちは、ごく素直なものになっていた。
それまで生きてきた中で初めてのことだったかもしれない。
「そんなこと口に出したら気持ち悪がられるから、言わないけどね」
自分のグラスを傾けてから、明子が感想を言う。
「ふーん、そうなんだ……やっと、サンジさんの人生が始まったのかもしれないね」
「そんなふうに言われてもなぁ……っていうか、遅すぎるけど」
「三十でも、四十でも、気づくことができた人は幸せなんだよ。
一生、親を恨みつづけたり、周りが見えないまま生きていく人も多いからさ」
サンジは、その何かに気づいただろうか。
何もたしかに言えることはないけれど、すこしは考えた。
(人間には、その身体と同じく心にも、自然な治癒力があるんだろう)
その芽を見つけ、育てていくことが大切なのだとサンジは知った。
それを明子にどう伝えればいいのかは、わからない。
きっと、とくに口に出さなくてもいいのだろう。
「明子さんは、昔からしっかりしてるもんなぁ」
サンジたちは年相応に、互いにさんづけで呼び合うようになっていた。
「あたしなんて全然だよ、見かけ倒しなんだ。
親にも逆らったし、ろくでもない男に捕まって、包丁を研いでた時もあったし」
「それ、怖すぎる……でも、そう聞くとなんか、親しみ湧くな」
「へんなとこで親しみ持たないでよ」
(それから、格段いい人間になったわけでもないんだが)
不器用ながらいまのサンジは、なんとか普通にちかい生活を維持している。
昔、ドラッグストアで上司だったニシヤマさんに言われたように、仕事を楽しいと思うようにもなった。
(自転車に乗るみたいなもんで、最初からそうできる人もいるんだろう)
暗い水の底から、少しずつ浮かびあがっていく。
はるか上の水面が近づくにつれて、周囲の明るさが増す。
冷たかった水も、生温かいものに変わっていく。
けれど、一気に浮上することはできない。
深海魚と同じで、ふくれあがり張り裂けてしまう。
そんな気がするからだ。
水面に指先を出す。
どこにも自分がフィットする空間がないという感覚。
それでも、1ミリずつ空気を押し返していく。
やっとからだを入れる隙間が確保できた。
そこにゆっくりと自分を滑り込ませる。
サンジは、地上に戻ってきた。




