2 永遠に、街角で
明子と再会したのは、十年も経ってからのことだった。
何年か連絡が途切れていたので、そう期待してはいなかった。
ひさびさに生まれた土地に用事ができて、サンジは電車を降りた。
キャナルという店はまだあるのか、そのくらいは見ておこうと思った。
かなり様変わりはしていたが、道順は身体が憶えている。
路地をまがっていくと、店はそのままの姿でそこにあった。
(中の人間は入れ替わってるんだろうな)
浮き沈みのある水商売の世界では、それが当たり前だ。
昔と違って、昼間は喫茶店をやっているようだった。
(知った顔はいないだろうけど、せっかくだからお茶でも飲んでいくか)
ドアを押すと、がらんと音がして客が来たことを知らせるのは変わらない。
テーブルでコースターや紙ナプキンを整えていた女性が顔を上げた。
「明ちゃん?」
明子は、一度キャナルを出て、戻ってきた時は別の名前を使っていた。
だから、自分をそう呼ぶ人間にはめったに会わなくなっていた。
(あのころ店に来ていた人……サンジくん?)
ふたりは、ひさしぶり、すぐわかったかい、変わらないね、そういうありきたりの会話をした。
「会えてよかったよ、ほんとうに」
その次の年に明子は自分の店『マーサ』を開店したので、すれ違っていてもおかしくないところだった。
「みなさん元気で、おかわりないの?」
挨拶がわりの決まり文句なのだが、言ってから明子はしまったという顔をした。
サンジの家庭の事情は、以前、話の流れでひとことふたこと口にしていた、それを思い出したのだろう。
「かわりないっていうか……母親は死んじゃったけど」
普通は言わないのだが、十年ぶりでも明子に対しては正直になってしまう。
「そうなの? たいへんだったでしょう」
「いや、もう三年も前のことだからさ」
サンジの母親は、交通事故がもとで他界していた。
それまで住所もわからなかったのだが、警察からサンジに連絡があった。
家出人捜索程度ではそう見つからないけれど、いざ身元引受人が必要となるとすぐに探し出せてしまう、そういうものなのだ。
母親は横浜で男性と暮らしていたそうで、そんな近くにいたのかと思った。
「お母さんとは近々、正式に結婚するつもりだったんです」
そう言ってその男性に頭を下げられた時は、返答に困った。
彼は、実直という言葉がいちばん合っているだろう、真面目な人間だった。
母親は自分の実家ともほとんど縁がなかったので、彼が葬儀を取り仕切ってくれたのだ。
本来なら辞退してサンジが自力でやるべきだと思ったが、結局は彼の厚意に委ねる形になった。
(おふくろが最後に惚れた相手なら、本望か)
(親父みたいのから逃げて、親切な男に会えてよかったよな……)
「お母さんもきっと、亡くなるまであなたのこと心配してたと思う」
「いや、そういうのはいい」
「恨んじゃ、だめだよ」
「そういうふうに考えたこと、ないんだ、ほんとに」
明子は、サンジが無理をしていると感じたようだった。
実際、それはそうだったのだろうと思う。
「これからは、自分が幸せになることを考えなよ」
「それも……ないかな」
「なに言ってんのよ、きれいなお嫁さんもらって、子どもつくってさ」
サンジは少し話をはぐらかせた。
「おれ、若い時に明ちゃんに会っちゃったからさ」
サンジがなにを言おうとしているのか、明子はすぐにわかったようで、小さく目で笑った。
「見る目ばかり肥えちゃって、なかなかね」
「あんた、いつからそんなに調子よくなったのよ」
「世間でもまれたせいかな」
つい母親の話題を出してしまったので、最後は笑って別れたかった。
「でも冗談じゃなくてね、明ちゃんはきれいな人だよ、ちょっと怖いけど」
「なんとでも言いなさい」
そのあと彼女と電話番号を交換して、『マーサ』を開店する時も連絡をもらった。
明子とは年に何度も会わないが、自分にとって数少ない本当の友人だとサンジは思っている。
(あの時、店にいてくれてよかった)
ほんの少しタイミングが合っていれば、明子と恋に落ちることもあったろう。
(おれなんて、明ちゃんの舎弟みたいなもんだからな)
そう考えると、サンジの胸の中に少しやわらかい部分ができる。
こんな話を聞く。
飛行機や列車の事故に遭って、生き延びることができた人々がいる。
彼らは事故が起きた当初は、何がなんだかわからないままに救助され、手当を受ける。
やがて身体が回復して日常生活に戻っていき、過ぎてみればそれほどのことはなかったと思ったりする。
けれど彼らの内部には、事故によって惹き起こされた恐怖や不安が残っている。
何年も経ってから心身にさまざまな障害をおこすことがあるという。
サンジにとって、母親の死がそうだった。
亡くなった時は、もうずっと前から彼女に関しては諦めていたのだと自分を納得させていた。
母親を許すとか許さないというふうに考えたことは、本当になかったと思う。
けれど、彼女が目の前からいなくなってしまったのは事実だ。
どんな事情があったにせよ、サンジと母親が和解する機会はなかった。
彼女が死んでしまった時、永久にそれはできなくなった……。
明子と再会してから半年ほど過ぎたころ、それは来た。
なにげなく道を歩いていて、幻聴にちかい形で母親の声を聴いたのだ。
(わたしは、生きています)
(わたしはいつまでも生きていて、毎日、街角であなたに会っているから……)
それがなにを意味するのか、考える前にサンジにはわかった。
自分の心が編み出してしまう、ありえない慰めの言葉なのだ、と。
ひとりで暮らし始めてからずっと、自分は自分の生活や仕事を降りることはできないのだと感じていた。
そうやって張りつめていた糸が、あっけなく切れていった。
サンジは壊れていた。
いま思うと、神経科に行って投薬でも受ければまだよかったかもしれない。
二年近くの間、まったく仕事ができずにいた。
起きている時間のうち半分以上を、ただ横になり天井や壁を見つめて過ごしていた。
よくあの時に死んでしまわなかったものだと思う。
どうして元に戻れたのかは、わからない、たぶん、まだ運があったのだろう。




