1 スターダスト
サンジと明子の話、全4話です
新宿、コマ劇場の裏を行くと、入口を開け放したカクテルの店がある。
朝までやっていて、夜中には客待ちの女たちが集まるような場所だ。
彼女たちはここで客を拾い、すぐそこのホテル街へ消えていく。
その時間になるまでは、普通に客とホステスが待ち合わせに使ったりしている。
まだ早い時間にサンジがそこに寄ると、女の子が一人でカウンターの中にいた。
彼女は童顔に似合わない革のジャケットを着ていて、日本人でないことだけはわかる。
ギムレットを頼み、しばらくすると、オレンジ色の液体が出てきた。
「これは……えーと、何を入れたのかな」
ライムジュースがなかったのでオレンジエードを使ったのだという。
「だめですか?」
「そういう時は、できませんって言ったほうがいいね……これはこれでいいか」
店番みたいなもので、本職のバーテンダーではないから仕方がない。
口をつけてみると、飲めなくはないかという程度のものだ。
サンジはもうすぐ二十三歳になるところだった。
人妻のミツエと別れたサンジは、山手線の内側の、それにしては格安のアパートに移り住んだ。
両親と最後に住んでいた場所、都内まで小一時間ほどの都市からは遠ざかったことになる。
もう、自分をつなぎ止めるものはほとんどなくなったとサンジは感じていた。
いい意味でも、悪い意味でも。
亡くなった友人の残したPCとマックを調べ上げた経験が、新しい仕事の基礎になった。
勉強を続けて、基本的なソフトからちょっと難しいデータベースまでだいたい理解できるようになっていた。
まだ世間でPCの知識をもっている人が少なかったこともあって、それで通用する職場を見つけることができた。
それ以降は、接客や販売の仕事につくことはなかった。
東京での一人暮らしは、慣れてみると気楽なものだった。
生まれた場所で店員などの仕事をしていると、知った顔に会って「大学に入ったはずなのに何してるんだ」と訝しがられる。
自分は割り切っているつもりだから辛いということはなかったが、煩わしかったのは事実で、そういうものからは逃れられた。
もともと遠くから憧れてやってきたわけではないから、都会に失望するなどということもなかった。
歌をうたうことはやめていて、以前よりギターの練習にうちこんでいた。
バンドの仲間とも離れていたので、ひとりでできることはそれだけだったのだ。
仕事の残業はかなり多かったが、それが終わるとまっすぐ部屋に帰り、何時間も弾き続ける。
声は出していないけれど唇でメロディーを追っていて、ときどきひどく乾いていることに気づく。
食事をするのも忘れていることが多かった。
結びつけて考えたくはなかったが、ミツエと別れたあとの空虚感がそうさせていたというのはある。
彼女とは、ひところはほぼ日常的にからだの関係をもっていた。
たんに性欲を発散できないというより、からだの芯にぽっかり穴があいたようなさびしさがあって、埋めることができない。
(生木を割くっていうのは、こういうことをいうんだろうな)
指先が割れてしまい、ギターを弾くのを中断する。
絆創膏を巻いて、真夜中の街に出かけていく。
盛り場で女性を買ったりするわけではない。
正確にいうと一度こころみたのだが、ぜんぜん彼女の代用にもならないのだとわかり、最後まで果たせなかった。
いちばん値段の安い酒場に入り、強い酒をぐいぐいと飲む。
まとまることのない考えが、きれぎれになって酔いのなかに落ちていく。
そういう生活が、何年か続いた。
高校時代の友だちが連絡をとってきて、ひと晩つき合って飲んだことがある。
「悪いけど、サンジがうらやましいと思う時もあるんだよ」
「どこが? べつに何でもいいけど」
「おれって、いまは会社勤めしてるけど、店を継がなきゃいけないじゃん。両親やばあちゃんの老後も、みんなおれにかかってくるしさ」
「それはそうだろうな」
へんに思いやられるよりはそういうふうに話してくれたほうが楽だ。
サンジには何もない、そういってよかったが、守るものがある生活というのも皮肉でなく大変なのだろうと思った。
「おまえって、苦労してるぶん、早く大人になってるよな」
「おれ程度で苦労とかいってたら、世間じゃ通用しないからね」
その時だけは少し胸を張って、社会人の先輩らしい顔をサンジはした。
その男と別れたあと、サンジは真夜中の国道沿いを部屋まで歩いて帰った。
お金がそんなにないせいもあって、まだクルマを拾う習慣がなかった。
一時間ちょっとの道を歩いている間、サンジは何を考えていたのだろう。
(あいつに悪気がないのはわかってる)
(べつに寂しくも、悲しくもない)
(なんにもない、なんにもない、おれの生活……)
オレンジ色のギムレットは、甘すぎて最後まで飲めなかった。
「ジンバックならできるよな」
「はい!」
女の子は眼を輝かせて笑顔で返事したけれど、大丈夫なのだろうか。
(明ちゃんは、どうしてるだろう)
三年以上が経ち、ミツエのことに対しては、もう考える気力をなくしていた。
その代わりのようにときどき思い出すのは、キャナルという酒場で会った明子のことだった。
彼女とは恋愛という関係ではなかったが、そのぶん、よくしてくれた記憶だけが残っている。
(たまには、顔を見て話したくなるな)
早い時間なら電車に乗り、キャナルに駆けつけることは簡単なのだけれど、それはできなかった。
自分は、優しく迎えてくれる場所には戻らないほうがいい……。
どこかでそう考えていて、足が動かなかったのだ。
そのあとまたひとりになった時、自分を支えていく自信がなかったというか。
「お客さんは、ミュージシャンですね」
ギターケースを見た女の子が、奇妙なアクセントで訊く。
「いや、素人だよ」
長いこと練習をしていて、人前にも出たけれど、プロと呼べるところまではいかなかった。だから謙遜ではない。
「でも、クラブで弾くのではないですか」
そこらへんの怪しげなバーやクラブで、ジャズのスタンダードを弾いたり、酔っ払いのリクエストに応えて演歌の伴奏をする仕事。
それができたらそれでもよかったのか。
昨夜、知り合いのバンドのライブがあって、手伝いのような形で少し出て弾いた、それがたぶん最後だ。
けさ会社に戻って、二万件ほどのデータベースを作っていた。
まだウィンドウズがあまり実用になっていなくて、入力も検索もほとんどコマンド打ち込みだった。
仕事で根気を使い果たして、余った時間はただ酒を飲んでしまう。
(それもいいかげんにしておかないとな、こんどこそ……)
「ごちそうさま」
千円札を二枚置いて、サンジは重い荷物を持ち上げる。
女の子は『カクテル入門』という冊子を読んでいた。
「ちゃんと勉強しておくんだよ」
彼女は顔をあげ「はい」と大きな声で返事をした。
それからもう一度、笑顔をつくってサンジを見送った。
(返事と笑顔だけはいいな)
それが生きていくのに必要なことだ、正解なのだとサンジは思った。
※コマ劇場
新宿コマ劇場、飲食店や映画館、サウナ風呂等の総合施設、2008年末に閉館




