4 極楽鳥
まだ暑かったり急に寒くなったり、秋は、そのくり返しのうちに冬に近づいていく。
これが秋晴れかというような日はなん日もないものだと思う。
昼間から浅草の居酒屋で休むのはサンジにとって、最善ではないが、まあまあの気休めだ。
あまり殺伐としていなくて、注文がとぎれても追い立てられることはない、けれどほどほどに活気があって、潰れかかってはいない店。
その条件を満たしている酒場は少なく『ゆうちゃんの店』はそのひとつだ。
主人は別にいて、彼女は手伝いに来ていただけなのだが、サンジの中ではこの場所をそう呼んでいた。
(ゆうちゃんは、この前もいなかったな)
アルバイト程度の勤めだから、必ずいるというわけではない。
最近は見かけていない、改めて主人に訊くのはへんだろうか。
肴の皿を受け取るついでに口に出してみた。
「あの黒いエプロンの彼女、みないねえ」
「ああ、ゆうちゃんは……去年、ちょっと病気でね」
「そうか、大丈夫だったんですか」
「そんなに重いとは聞いてないけど、うちの手伝いはもう来ないかもしれないなあ」
ゆうちゃんとはとくに親しく会話をしていたわけではないが、なんというか、彼女の立ち居振舞いが気に入っていた。
馴染んでいた空間がまたひとつ、なくなっていく気がする……主人に失礼か。
(ひとごろし、か……あの程度のことでなぁ)
いつか地下鉄で引き倒してしまった若い男のことを思い出していた。
舌打ちしながら無言で他人を押しのけていたのを、注意しようとしただけなのだ。
甘やかされて育ったというと簡単すぎるが、他人に傷つけられた経験があまりないのか。
自分のなにげない言動が他人を傷つけることへの自覚は、ありそうにない。
(おれは、あるのかな)
できるだけ、そういうことを避けて生きているつもりなのだが……。
サンジは、誰といわず人間について考えることが面倒になり、ただグラスを傾けた。
それでも、いままでに出会ってきたいくつかの顔が、わけもなく次から次と浮かんでくる。
(ほんとの自分なんて、そんな大層なものじゃないんだろう)
「誰もそんなにあんたのことなんて見てやしないよ」という、よくある言葉が合っているとサンジは思う。
それは、冷淡なように聞こえるかもしれないが、なかなか慈しみを含んだ言い方ではないだろうか。
自分の影を大きくしすぎてはいけない。
それを誰かに投げつけて、わかってもらおうとすることも、よくない。
自分になにかが欠けていると感じたからといって、それを誰かに引き受けてもらうわけにはいかないのだ。
誰かにもたれかかるかたちになって、それを愛しているからだというように取り違えてはいけない。
十年か二十年かかって、サンジはそう思うようになった。
どこも欠けたところがない、まん丸な自分。
そんなものは最初からなかったことに、気づいたほうがいい。
あちこちデコボコで、ちょっとずつ、時にはかなりいろいろなことを間違えながら、自分たちは転がっていく。
それを楽しいと思うかどうかだ。
それは、言うほど簡単ではないことだけれど』
電車を乗り継いで、御徒町にある明子の店にたどりついた。
『パブ・マーサ』の看板は新しいものになっている。
「業者の人が、いまふうにしてくれるっていうからさ」
「そういうのも、おつき合いだからな……看板だけでも新しくなっていいだろ」
「人間が古くって、ごめんなさい」
「いや、明子さんはかわらないよ、ついこのあいだ初めて会ったみたいだ」
明子はオードブルを作る手を休めて、お手上げのしぐさをした。
「いまさら、お世辞いう仲でもないでしょ……でもそうだね、十五年も経った気はしないね」
横では、女の子のバーテンダー、コウが笑いをかみ殺している。
「コウちゃんが笑ってるよ、年寄りがなんか言ってるって」
「とんでもないです」
手を振ってサンジの言葉を打ち消しながら、コウがグラスの上にシェーカーを傾ける。
「でも、おふたりを見てると、いい関係だなって思います」
明子が煙草に火を点けた。
「そういうことにしておこうかな」
いつもこうしていればいいのだが、なかなかここにまっすぐは来ない。
「いろいろあったけど、まだまだだな」
サンジはそう言って、またコウが笑みをうかべているのに気がついた。
自分が、来るたびにこの台詞を口にしているからなのだろう。
「これからだ」
リキュールの瓶のラベルに描かれた、熱帯の鳥。
(極楽鳥、っていうのかな……)
(了)
「ちこりごと/断章2〜4」から「夜の鳩、月の熊」の間でこぼれていた部分ということになります
青年時代のサンジの孤独な闘い、母親の死の前後はシリーズ全体のバランスから考えて省いていました
思わせぶりなまま終わるのもどうかと思ったので、この小説にしてみました
サンジと明子、コウが並んだこの酒場の光景が皆さんの中に残ったなら幸いです
ありがとうございました!




