第8話 落第の影
1841年に入っても、兄貴はまだ机に向かっていた。
三度目の落第から、もう四年が経つ。村の空気は、相変わらず戦争の話題で騒がしかったが、兄貴の世界はそれとは別の場所で止まっているように見えた。四書五経の注釈書を、擦り切れるほど読み返す。夜、俺が寝床に入ってからも、隣の部屋から紙をめくる音が聞こえてくることがあった。
——正直、甘い。
日本にいた頃、俺も受験勉強でプレッシャーを味わったことがある。塾のテストの順位が張り出され、母親から成績の話をされるたびに息が詰まった。それでも俺は、逃げずに結果を出した側の人間だ。四年も五年も同じ場所で足踏みしている兄貴を見ていると、内心どうしても「そこまで追い詰められてるなら、なんでまだ同じやり方に縋ってるんだ」という苛立ちが顔を出す。
自分が耐えて這い上がった経験があると、他人の足踏みに対して、どうしても厳しい目になる。生き残った側の理屈だと分かっていても、この感覚だけはなかなか抜けなかった。
科挙は、個人の勝負なんかじゃない。
この村では、誰かが科挙に受かれば一族総出の祝い事になる。逆に、何年も落ち続ける男がいれば、その男の不甲斐なさは一族全体の評判に響く。宗族社会というのは、そういう仕組みだ。兄貴が今感じている焦りは、たぶん本人一人の焦りじゃない。両親、叔父たち、村中の目、それら全部を背負った重さだ。
俺の受験なんて、せいぜい自分の将来がどうなるかだけの話だった。ここでは、落第するたびに、一族の期待という重さそのものが、兄貴の背中に積み重なっていく。四年、五年、それ以上——落ちるたびに重みが増していくのに、逃げ場はどこにもない。
——それは分かる。分かった上で、それでも「甘い」と思う自分がいる。
構造として理不尽なのは理解できる。それでも、俺の中のどこかは「その理不尽さに潰されるくらいなら、さっさと別の道を探せばいいだろう」と冷たく計算している。自分が這い上がった側だからこそ、這い上がれない人間の理由を、無意識に軽く見てしまう。それが単なる生存バイアスだということくらい、俺にも分かっていた。
「兄さん、少し休んだ方がいいのでは」
夜中、明かりの下でまだ本に向かっている兄貴の背中を見て、俺は湧いてくる苛立ちを抑えながら、それでも一応、声をかけたことがある。兄貴は顔も上げずに言った。
「休んでいる暇などない。今度こそ受からなければ」
その声には、もう五度目の挑戦に向けた決意というより、追い詰められた者の意地のようなものが滲んでいた。俺はそれ以上、何も言わなかった。
——ただ、これだけは忘れちゃいけない。
兄貴がこの先、上帝の啓示を「本気で」信じ込むようになるのは、この焦燥感の果てにある。科挙という物差しで測られ続け、それでも認められなかった男が、別の物差しを見つけて、そこで初めて「自分は特別な存在だ」と思い込める場所に辿り着く。それは救いであると同時に、途方もなく大きなエゴでもある。
落第する男が、やがて自分を天から選ばれた者だと信じるようになる。
その転換点に、俺は静かに立ち会っている。「甘えるな」と切り捨てたくなる気持ちと、その先に何が待っているかを知っていて動かない自分——両方が、同時に俺の中にあった。
内心では「甘ったれ」だと思っている。だが、止めるつもりはない。
兄貴が今の物差しで測られ続ける限り、俺の出番は来ない。兄貴が本当に折れて、別の物差しに手を伸ばした瞬間こそが、俺が動き出す合図だった。




