第5話 勧世良言
兄貴の書箱の底から、それを見つけたのは何気ない日だった。
埃をかぶった薄い冊子。表紙には『勧世良言』とある。キリスト教の解説書だ。数年前、二度目の科挙のときに広州の試験場前で、外国人宣教師とやらに配られたものらしい。兄貴自身は当時、目次だけ流し見て「ふん」と鼻で笑って書箱に放り込んだだけだと聞いた。中身なんてろくに読んでいない。
俺は、そのことに軽く笑った。
——日本人からすると、これはなかなか珍しい光景だ。
俺の記憶にある日本では、キリスト教徒なんてクラスに一人いるかいないかの少数派だった。ミッションスクール出身の女子か、あとは海外ドラマにハマった大学生が「聖書、教養として読んでる」とか言い出すくらいで、素面でキリスト教の冊子を本気で読み込む同世代なんて、正直かなりの変わり者枠だ。
それがこの世界では、宣教師が試験場の前で堂々と冊子を配っている。清朝としては邪教扱いのはずなのに、意外と隙が多い。まあ、後々の展開を知っている俺からすれば、ここで清朝の取り締まりがもう少し厳しかったら、太平天国そのものが生まれなかったのかもしれない、と思うと歴史の皮肉を感じないでもない。
ページをめくる。
中身は、正直かなり俗っぽかった。人はもともと罪深い存在だ、というところから話が始まって、その罪を悔い改めて上帝を拝めば救われる、拝まなければ罰が下る——高尚な神学の講釈というより、説教くさい説得の教訓集、という感じの文体だった。だが、この俗っぽさこそが、証券営業をやってきた俺には妙に馴染む感触だった。
——これ、営業トークの構成そのものじゃないか。
まず「あなたは今、問題を抱えていますよね」と自覚させる。罪という、誰も逃げられない弱みを先に握らせる。それから「でも解決策はここにあります」と差し出す。二択を突きつけて、迷う暇を与えない。ノルマに詰められながら客に電話をかけていた頃、俺も似たようなことを喋っていた。「今のままだと危ないですよ」。相手の弱みを先に言葉にしてやる。それだけで、人はこちらの言うことを信じ始める。
この冊子を書いた人間も、たぶん同じことを分かっていたんだろう。
ただ、皮肉なのはここからだった。
兄貴は、この冊子の中身をろくに読まないまま、あの熱病の中で似たような幻を自力で見た。神に選ばれた、天から使命を授かった——そう信じ込みたい理由を、兄貴はずっと抱えていたのだと思う。四度目の落第が見えている男が、地上の物差しでは測れない別の物差しを、無意識に探していた。
科挙がつらすぎて、神にすがったのか。
だとしたら、その神様は結局、何もしてくれていない。
——『沈黙』かよ、と俺は内心でひとりツッコミを入れた。日本にいた頃読んだ、あの遠藤周作の小説だ。信者がどれだけ祈っても、神は沈黙を続けたまま何も応えない、という話。兄貴の場合も同じだ。上帝は夢の中で立派なことを言ったが、目が覚めたらまだ科挙に落ち続ける、ただの貧乏な塾教師のままだった。神様、何もしてくれてないじゃないか。
だったら、こう思うことにした。
神様が黙っているなら、代わりに喋る人間が必要なだけだ。
俺は冊子を書箱に戻し、埃を軽く叩いた。今はまだ、これを兄貴に読ませるタイミングじゃない。この俗っぽい生活保護パンフレットが、いつか兄貴自身の言葉として語られ直す日まで——俺はまだ、大人しく聞き役でいる。




