第43話 仕方なく、皇帝
兄貴が死んだのは、それから、いくらも経たない頃だった。
もともと、天上の幻に溺れ、現実から遠ざかっていた兄貴の身体は、静かに、燃え尽きるように衰えていった。ある朝、女官の悲鳴で駆けつけたとき、兄貴はもう、御簾の奥の褥で、冷たくなっていた。
安らかな死に顔だった。
——兄さん。
俺は、その枕元に、しばらく座っていた。
この人を、俺は、ずっと利用してきた。あの熱病の幻を都合よく編集し、教義を書き換え、神聖な看板として祭り上げ、その裏で、実権を握り続けた。だが、それでも——この人は、俺の、たった一人の兄だった。血を分けた、身内だった。コネもなく、身寄りもなかったこの異郷で、俺に「弟」という居場所をくれた、ただ一人の人。
胸の奥が、静かに、疼いた。
「……お疲れ様でした、兄さん。あとは、俺がやります」
俺は、そう呟いて、兄貴の顔に、そっと布をかけた。
だが、感傷に浸っている暇は、なかった。
兄貴の死は、この国に、大きな空白を生んだ。神聖なる天王——万民が頭を垂れる、求心力の核。それが、突然、失われた。次代の象徴と定めた洪天貴福は、まだ、あまりに幼い。この幼い少年を、今すぐ玉座に据えたところで、その神聖な看板を担いで、無能な身内が好き勝手を始めるのは、目に見えていた。
過渡期の、空白。それを、埋める者が要る。
諸将が、集まってきた。李秀成をはじめ、俺が育て上げた新世代の将たち。古参の重臣たち。彼らは、口々に、同じことを言った。
「この国を、実際に導いてこられたのは、あなた様です」
「天王亡き今、この大陸を束ねられるのは、あなた様をおいて、他におられぬ」
「どうか——帝位に、お就きください」
——来たか。
俺は、内心で、小さく息をついた。
予想は、していた。兄貴が死ねば、この流れになることは。二十年、この国の実務を握り続けてきた俺以外に、この空白を埋められる者など、いはしない。それは、誰の目にも、明らかだった。
だが俺は、即座には頷かなかった。
——皇帝に、なる。それは、俺の思想と、矛盾する。
俺が作った国は、皇帝から中身を抜いた国だった。神聖な象徴と、実務の機構を、切り離した国。もし俺が、生身の権力を持った皇帝として玉座に座れば、それは、一人の資質に国の命運が縛られる、あの古い専制へと、逆戻りしかねない。
だが——と、俺は考え直した。
今、この過渡期の空白を放置すれば、それこそ、国が割れる。無能な身内が、幼い天貴福を担いで、実権を奪い合う。それを防ぐには、誰か一人が、確固たる頂点として、この空白を、一時的に埋めるしかない。
——ならば、条件を、つける。
俺は、居並ぶ諸将に向かって、静かに口を開いた。
「分かった。帝位に就こう」
諸将の顔に、安堵が広がった。だが、俺は、続けた。
「ただし、一代限りだ」
「一代、限り……?」
「そうだ。俺は、この国が完全に固まるまでの、中継ぎに過ぎん。俺の代で、帝位を世襲する新たな一族を作るつもりは、ない。俺が死ねば、この座は、天王の血を引く洪天貴福へと、返す。神聖なる血統は、洪家に。それは、最初から、変わらん」
俺は、はっきりと、そう宣言した。
これで、俺を敵視する理由は、誰にもなくなる。俺が帝位を私物化し、我が子に継がせようとすれば、洪家の血統を担ぐ勢力と、必ず対立が生まれる。だが、「一代限り、必ず血統に返す」と最初から明言しておけば、俺は、簒奪者ではなく、国を安んじるための、私心なき中継ぎになる。誰も、俺を、討つ理由を持たない。
——そして、これこそが、俺の思想の、総仕上げだ。
俺は、自分自身が皇帝の座に就くことで、その座を、個人が私物化するものではなく、国を安定させるために一時的に通過する「機能」へと、作り変える。皇帝という座から、世襲という私物化の本質を、俺の一代で、抜き取ってしまう。俺が即位し、俺がその座を空洞化させ、俺が次代へと返す。皇帝制の意味そのものを、俺の手で、書き換える。
諸将は、深く、頭を垂れた。
こうして、俺は——帝位に就いた。
太平天国改め、新しい中華の、初代にして、一代限りの皇帝。就活に全滅し、歯車ですらなかった、あの男が。
即位の儀の日、俺は、玉座に座り、居並ぶ臣下たちを見下ろした。
——ははっ。
込み上げてきたのは、笑いだった。声には出さない、内心の、乾いた笑い。
俺は、この座になど、本当は、何の執着もなかった。実権なら、とうの昔に握っていた。肩書きなど、どうでもよかった。皇帝の名は、兄貴にくれてやって、俺は、皇帝の「中身」だけを、握っていればいい——ずっと、そう思ってきた。
それが、どうだ。名を捨て実を取り続けた果てに、その名の方が、向こうから転がり込んできた。周りに持ち上げられ、断る理由もなく、仕方なく、俺は、玉座に座っている。
——就活に失敗したので、いっそ中華皇帝になろう、か。
二十年前、この異郷に放り込まれた日に、半ば自棄で、半ば本気で、そう嘯いた。まさか、本当になるとはな。花形企業に、ことごとく落とされた男が。ガクチカがないと、鼻で笑われた男が。今、この広大な大陸の、頂点に、座っている。
俺は、玉座の肘掛けに、静かに頬杖をついた。
——まあ、一回くらいは、なってやるか。皇帝ってやつに。
窓の外では、新しい中華の空が、どこまでも高く、澄み渡っていた。




