第42話 海の向こう
李鴻章が、日本にいる。
その事実は、俺の頭の片隅から、片時も離れなかった。清朝の遺臣にして、洋務を知り尽くした現実主義者。あの男が、開国したばかりのあの島国と結び、いつか、この新しい中華に牙を剥く。それは、ほぼ確実な未来だった。
——だが。
俺は、執務室の机に広げた地図を前に、静かに算盤を弾いた。
あの島国は、恐ろしい速さで、近代化を遂げるだろう。俺が知る歴史よりも、さらに速く。海の向こうに、清を倒した巨大な新中華が出現し、清の遺臣まで抱き込んでいるのだ。その恐怖と危機感が、日本の近代化を、狂ったように加速させるに違いない。攘夷だ開国だと揉めている暇など、あの国には、もう残されていない。
いずれ、あの島国は、牙を剥く。それは、避けられない。
だが、俺は、その戦いに、勝てる確信があった。
——史実で、清が負けた理由を、俺は、全部潰してある。
俺の知る歴史では、この後、清と日本は戦い、清は敗れる。経済の規模でも、兵力でも、圧倒的に勝っていたはずの清が、だ。なぜ負けたか。答えは、明白だった。清は、一つになれなかったからだ。満洲人と漢人の対立。軍閥同士の反目。中央の求心力の欠如。国は大きくとも、その内側は、ばらばらに割れていた。だから、小さくとも一つにまとまった日本に、各個に食い破られた。
だが、この新しい中華は、違う。
満洲人の王朝は、もう滅ぼした。民族の対立は、根こそぎ断った。軍閥の分立は、選抜制度と、一元化された指揮系統で、封じてある。天京事変のような内部分裂も、未然に防いだ。この国は、大きく、そして——一つに、まとまっている。史実の清を敗北させた病巣を、俺は、一つ残らず、設計で埋めてあった。
規模で勝り、なおかつ、一つにまとまった中華。それは、史実の、あの弱い清とは、まったくの別物だった。
列強も、俺の側に傾いていた。上海を脅かさず、条約を尊重し、信仰の衣で友誼を結んできた。彼らが、日本の側に立って、この新中華を叩くことは、まず、ない。むしろ、交易の相手として、この巨大で安定した国を、彼らは選ぶだろう。史実で清を追い詰めた「列強+敵国」の連合は、この世界では、生まれない。
そして、俺の軍は、もう、竹槍の農民兵ではなかった。近代の兵器を作り続ける工廠を持ち、規律ある兵を擁し、選び抜かれた指揮官が率いる、一個の近代の軍だった。
——勝てる条件は、すべて、揃っている。
あの島国が、いくら李鴻章を担ぎ、牙を研ごうと。規模で劣り、後ろ盾もなく、ただ一国で挑んでくる挑戦者に過ぎない。かつて、史実の日本が、弱く分裂した清を食い破ったように——今度は、強く一つにまとまったこの中華が、挑んでくる島国を、迎え撃つ。
立場は、完全に、入れ替わっていた。
俺は、戦いそのものを、急ぐつもりはなかった。焦る必要が、どこにもなかったからだ。この国を、さらに強く、さらに一つに固め、来るべき日に備える。開戦の時も、条件も、こちらが選べる。盤面は、すでに、俺が支配していた。
——来るなら、来い。
俺は、地図の上の、小さな島国を、静かに見つめた。かつて、俺を歯車としか見なかった、あの国。だが、もう、恐れるものは、何もなかった。俺は、あの国が知るより先に、この大陸を、勝てる形に、作り変えてしまったのだから。
窓の外で、天京の街が、新しい時代の光を浴びていた。
俺の設計は——ほぼ、完成していた。




