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第41話 御簾の奥

 新しい国の骨格が定まると、俺は、もう一つ、片付けておくべきことに手をつけた。


 象徴の、継承だった。


 兄貴を、神聖にして侵すべからざる天王として、御簾の奥に据えた。だが、兄貴とて、いつまでも生きているわけではない。天上の幻に溺れ、日に日に現実から遠ざかっていくあの人が、いなくなった後。空っぽの玉座を、誰が継ぐのか。


 その答えを、俺は、用意しておく必要があった。


 兄貴には、息子がいた。洪天貴福。まだ、十四になったばかりの少年だった。


 ——こいつを、次の看板にする。


 象徴は、血統で継がせるのが、最も安定する。実権を持たない、ただの神聖な飾りだからこそ、中身の資質を問わず、血筋だけで継承できる。天貴福が賢かろうと、凡庸だろうと、関係ない。神聖な血を引いているというその一点だけが、必要とされる資格だった。


 俺は、この少年のことを、実は、よく知っていた。


 ——史実のこいつの末路を、俺は知っている。


 俺の知る歴史では、この少年は、悲惨な最期を遂げるはずだった。


 父・洪秀全が病死し、天京が敵に落ちると、天貴福は、幼くして「幼天王」に担ぎ上げられる。だが、それは名ばかりで、実権も、力も、何も持たされないまま、敗軍とともに逃亡の旅に出る。清軍の追撃の中、供とはぐれ、山中を四日四夜、飢えてさまよい、農家に匿われるも、農作業もできずに追い出される。そして、十五になる前に捕らえられ——南昌の刑場で、凌遅の刑に処される。


 生きたまま、身体の肉を、一片ずつ、千を超える刀で削がれていく、あの、想像を絶する極刑。担がれただけの、何の罪もない少年が、その最も惨たらしい死を、遂げるはずだった。


 史実の天貴福は、命乞いに、清朝への恭順を詩に詠んだという。もう長毛(太平天国の蔑称)ではない、清朝に忠義を尽くす、と。だが、その必死の哀願は、一顧だにされなかった。彼が本当に望んでいたのは、ただ、学問がしたい、書物が読みたい、それだけだったという。


 ——そんな末路は、この世界には、来させない。


 俺は、天貴福を、天王府の奥に迎え入れた。


 父・洪秀全の隣で、神聖な血統の継承者として。ただし父と同じく実権は一切持たせない。政も、軍も、一切、触れさせない。その代わり——俺は、この少年に望むだけの学問を許した。


 書物を与えた。西洋の学問も、儒教の古典も、詩文も、望むままに。御簾の奥の、金の鳥籠の中で、天貴福は、ただ、神聖な象徴として在り続けることと引き換えに、生涯の安寧と、好きなだけ学べる日々を、手に入れた。


 ある日、俺は、書物に埋もれて過ごす天貴福の姿を、遠くから眺めた。


 少年は、静かに、一冊の書に読みふけっていた。その横顔には、屈託がなかった。逃亡も、飢えも、刑場も、何一つ知らない。ただ、守られた場所で、好きな書物を読む、一人の穏やかな少年が、そこにいた。


 ——お前は、知らないだろうな。


 俺は、内心で、その少年に語りかけた。


 別の歴史では、お前は、山を這いずり回って、飢えて、命乞いして、それでも許されず、生きたまま切り刻まれて死ぬはずだった。その運命を、俺が消してやった。


 もちろん、慈悲でやったわけじゃない。象徴を血統で継がせるのが、この国にとって、最も安定した継承の形だったからだ。天貴福を生かし、無害な看板として据えることは、俺の設計にとって単に合理的だっただけだ。


 だが——


 書物に没頭する少年の、その穏やかな横顔を見ていると、俺の胸の奥に、ささやかな、しかし確かな満足がじわりと広がった。


 ——まあ、史実のお前よりは、幸せにしてやったよ。


 金の鳥籠には違いない。自由に外を歩くことも、自分の意志で何かを成すことも、この少年には、許されていない。だが、それでも。生きたまま肉を削がれて死ぬ運命に比べれば、書物に囲まれたこの静かな檻は間違いなく幸福な場所だった。


 俺は、この兄と甥を、御簾の奥にそっと収めた。


 神聖な血統は、父から子へ。実権は、玉座の外の、俺の手に。血が玉座に座り、実力が玉座の外で国を動かす。その継承の形が、この二人の姿で、静かに定まった。


 ——これで、後顧の憂いは、断った。


 象徴は、安定して受け継がれていく。無能な身内が、この神聖な看板を担いで何かを企てようとしても、実権はすべて俺が握っている以上、担ぐ神輿があっても、担ぐ力はどこにもない。


 俺は、御簾の奥に背を向け、執務室へと戻った。


 国内の憂いは、消えた。新しい帝国の骨格は、定まった。象徴の継承も、片付いた。


 残るは——海の、向こうだった。


 机の上には、あの島国の地図が、広げたままになっていた。李鴻章が逃れ、これから急速に牙を研ぐであろう、日本。かつての、俺の母国。


 ——さあ。最後の仕上げだ。


 俺は、地図の上の小さな島国に、静かに視線を据えた。


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