第40話 中華帝国
清が滅び、太平天国が天下の主となった。だが俺の仕事はそこからが本番だった。
王朝を倒すのはたやすい。難しいのは、その後いかにして続く国を作るかだった。
俺は新しい国の骨格をいよいよ最終的な形に組み上げにかかった。
まず頂点に兄貴を据えた。
天王・洪秀全。上帝の次子、天兄イエスの弟。神聖にして侵すべからざる、この国の象徴。だが、その手には実権を一切持たせない。兄貴は、天上の幻の中で、神聖な看板であり続ける。それが、兄貴に与えられた、唯一にして最高の役目だった。
——皇帝という顔は残す。だが、中身は抜く。
これが俺の設計の核心だった。
人が一つにまとまるためには拝む対象がいる。頭を垂れ忠誠を捧げその名のもとに命を賭ける、超越的な中心が——それがなければ、国はばらばらに割れていく。求心力の核を欠いた統治は、必ず分裂する。
だがその中心が生身の権力を握ってしまうと、今度はその一人の資質に国の命運が縛られる。有能な君主なら良い。だが、無能な、あるいは狂った君主が座れば国は傾く。兄貴のように。
だから、俺はその二つを切り離した。
求心力の核としての「皇帝」は、残す。だが、そこから生身の権力を抜き取る。神聖な象徴として、兄貴を空っぽの玉座に祭り上げる。そして実際の統治はその看板の下で俺が設計した実務の機構が担う。
——皇帝から人格を抜いて、機能だけを残す。
ある夜、俺は腹心の一人にこの国の形を問われたことがあった。
「これはいったい何という国なのですか。皇帝を戴かぬのに王朝と言えるのか。かといって、民が主となるわけでもない。私にはこの国の形が掴めませぬ」
もっともな問いだった。俺は少し考えてからはっきりと答えた。
「これは、帝国だ」
「帝国、ですか」
「そうだ。だが、古い帝国とは、違う。血で人を縛り、家柄で地位を定める、あの古い帝国ではない」
俺は、机の上に広げたこの国の設計図に目を落としながら続けた。
「入り口は、万人に開く。客家だろうと、漢人だろうと、貧農の子だろうと、実力さえあれば、上を目指せる。血でも、コネでもない。ただ、使えるかどうかで、人を選ぶ。誰もが頂を目指せる国だ」
「では、皆が平等な……」
「いや」
俺は、遮った。
「頂はただ一つだ。機会は万人に開く。だが、権力は一点に集める。誰もが登ることを許されるが、登り着く頂は、一つしかない。門戸は、どこまでも開く。だが、構造はどこまでも一つに束ねる。——それが、俺の目指す帝国だ」
機会的平等主義の、帝国。
入り口の平等と、頂点の一元。相容れぬはずの二つを、俺は意図的に接合した。下からの登用に、どこまでも開かれた入り口。そしてその全てをただ一つの中心へと束ねる、揺るぎない構造。この二つが噛み合ったとき、初めてこの大陸を最も長く最も強く保つ統治の形が完成する。
腹心は、しばらく黙考した後、ゆっくりと頷いた。完全に理解したわけではないだろう。だが、この国が、これまでのどの王朝とも違う、新しい何かであることだけは、感じ取ったようだった。
俺は、一人になった執務室で窓の外の天京の街並みを眺めた。
——皇帝なき中華、か。
いつか、後世の人間はこの国をそう呼ぶかもしれない。皇帝が生身の権力を握らぬ国。あるいはこうも言うだろう。皇帝なき中国など幻想だった、と。中華には絶対的な皇帝の専制が必要で、それを欠けば必ず分裂し挫折するのだ、と。
——違うな。
俺は、内心で、そう呟いた。
皇帝なき中華が幻想だというなら、それは皇帝をただ消そうとするからだ。専制君主を打倒して、その空いた玉座に、多様で、分権的で、寛容な、美しい理想を据えようとするから失敗する。そんな理想ではこの広大な大陸はまとまらない。ばらばらに割れて外に食い破られるだけだ。
俺は、皇帝を消しはしなかった。
消したのは皇帝の「中身」だ。人格を、資質を、生身の権力を、玉座から抜き取った。そして、皇帝という「機能」——万民が頭を垂れる、超越的な求心力の核だけを空っぽの象徴として残した。その空洞の中心の下で実務の機構がこの国を精密に動かしていく。
皇帝なき中華は、幻想ではない。
ただ、皇帝を消すのではなく、皇帝から中身を抜く、という一手を今この時代の誰も思いつかなかっただけだ。多様性という甘い夢に逃げず、かといって、専制という古い檻にも戻らず。その、狭い狭い道を、俺は通り抜けてみせた。
——俺が作ったのは、続く帝国だ。
誰もが上を目指せる、しかし頂はただ一つの、機会的平等主義の帝国。血の呪縛から解き放たれ、しかし一つに束ねられた新しい中華。それが俺の答えだった。
窓の外で天京の街が新しい時代の朝を迎えていた。かつて清朝という古い偶像が支配していたこの大陸に、今、俺が設計した、全く新しい統治の機構が、静かに、しかし確かに、根を下ろし始めていた。
——さあ。この帝国を完成させよう。
そしてその完成の、その先に。海の向こうの、次の戦いが待っていた。




