第39話 北京
1863年、太平天国の軍は、ついに北京へと迫った。
アロー戦争の傷が癒えぬ清朝に、それを防ぐ力は、もはや残っていなかった。近代の兵器と、規律ある兵と、選び抜かれた指揮官。そのすべてを備えた太平天国の軍の前に、清の防衛線は、次々と崩れていった。
最後まで抵抗したのは、清朝の正規軍ではなかった。
曾国藩の湘軍だった。
儒教の正統を、その身に体現したような男。太平天国を、孔子の教えを踏みにじる文明の敵と見定め、生涯をかけて戦い抜いた、筋金入りの漢人官僚。彼は、列強に見捨てられ、清朝が傾いてなお、最後まで刃を収めなかった。
——あの男だけは、どうやっても、こちら側には来ない。
俺は、曾国藩という人間を、正確に理解していた。彼にとって、儒教は、方便でも道具でもなかった。信念そのものだった。俺が儒教を工程管理の対象として、冷徹に解体しようとしているのとは、対極にいる男。彼を取り込むことは、最初から、不可能だった。
曾国藩は、最後の抵抗の果てに、敗れた。伝え聞くところでは、自ら命を絶ったという。儒教とともに生き、儒教とともに滅ぶことを選んだ、その最期は、俺の目にも、一個の見事な滅びとして映った。
——あんたは、あんたの信じるもののために死んだ。立派なもんだ。俺には、できない生き方だ。
一方で、逃げた男もいた。
李鴻章。
曾国藩と同じ漢人官僚でありながら、この男は、まるで違う質を持っていた。現実主義者。信念よりも、生き延びることと、成すべきことを優先する、冷徹な計算家。彼は、清朝の敗北を早々に見切ると、麾下の兵と、その近代化の知識を抱えたまま、東の海へと落ち延びた。
向かった先は——日本だった。
開国して間もない、あの島国。李鴻章は、そこに、雌伏の地を求めた。清朝の遺臣として、いつか、この新しい中華に対抗するために。
その報せを受けたとき、俺は、しばし考え込んだ。
——厄介な男が、厄介な場所へ逃げたな。
李鴻章は、殺しておくべきだったかもしれない。だが、あの男を追い詰めきる前に、逃げられた。そして、逃げた先が、よりによって日本。近代化の知識を持った実力者が、これから急速に力をつけるであろう国と、結びつく。それが何を意味するか、俺には、嫌というほど分かった。
だが、それは、後の話だ。今は、まず、目の前のことだった。
1863年の冬、北京が、落ちた。
清朝最後の皇帝は、都を捨てて逃れ、やがて捕らえられた。二百数十年にわたって中華に君臨した、満洲人の王朝が、ここに、終わりを告げた。
太平天国が、清に取って代わった。天下の主が、代わったのだ。
その報せを、俺は、天京の執務室で受け取った。
——終わった。
俺は、しばらく、椅子に座ったまま、動かなかった。
やってやった、という高揚は、意外なほど、静かだった。拳を突き上げるでも、快哉を叫ぶでもない。ただ、深い、深い満足が、腹の底に、静かに満ちていくのを感じていた。
予定通りだった。
二十年前、この世界に放り込まれたときから、俺が頭の中で描いてきた設計図。その通りに、歴史が動いた。誘導し、書き換え、飼い殺し、そして、清朝という巨大な化け物を、盤上から取り除いた。すべて、俺の計算の通りに。
——俺は、歴史に、名を刻んだ。
その一点に、俺の満足の核があった。
日本にいた頃、俺は、いてもいなくても同じ、取り替えのきく歯車ですらなかった。誰の記憶にも残らず、何の影響も及ぼさず、消えていくはずだった、一人の男。それが、どうだ。俺は今、一つの王朝を倒し、新しい中華を打ち立て、歴史そのものを、この手で書き換えた。俺という人間が、確かに、この世界に存在したという証を、歴史の一ページに、刻みつけた。
それは、清を倒した喜びというより、俺自身が、無ではなかったという、証明だった。
だが——
窓の外に目をやると、天王府の甍が、冬の陽に鈍く光っていた。
その奥には、兄貴がいる。この、途方もない勝利の意味を、もう理解できなくなった兄貴が。天上の幻に溺れ、地上の天下が代わったことすら、正しく認識できないであろう、あの人が。
——兄さん。俺は、やりましたよ。
俺は、内心でそう語りかけた。だが、その言葉が届く相手はもうどこにもいなかった。
これほどのことを成し遂げて、それを本当の意味で分かち合える相手が、この国に、一人もいない。兄貴は、幻の中。将たちは、俺を主君として敬いこそすれ、俺の見ている景色を共有してはいない。李秀成でさえ、俺が何と戦い何を欲してここまで来たのか、その本当のところは知らない。
勝者は、いつも独りだった。
頂に立った者の周りには、誰もいない。分かち合う相手のいない勝利は、これほどまでに、静かで、乾いていた。
だが俺は取り乱さなかった。虚しいとも思わなかった。孤独は頂に立つ者の当然の代償だ。そんなことは最初から分かっていた。
俺は椅子から立ち上がり机の上に広げた、一枚の地図に目を落とした。
東の海の向こう側、李鴻章が逃れ、これから急速に牙を研ぐであろうあの島国がそこにあった。
——さあ、次だ。
清は、終わった。だが俺の設計は、まだ終わっていない。この新しい中華を本物の近代国家として完成させ、そして——海の向こうから迫るであろう、次の脅威に備える。
俺は地図の上の日本という島国を、静かに見つめた。
勝利の余韻に浸る時間は、もう終わっていた。




