第38話 北伐
1861年、太平天国の軍は、北へ動き始めた。
史実では、太平天国の北伐は、無残な失敗に終わっていた。天京を定めて間もない頃、少数の精鋭を、補給の当てもないまま北へ送り出し、華北の寒さと、清軍の反撃の中で、全滅させている。準備も、兵站も、あまりに杜撰だった。
——同じ真似は、しない。
今度の北伐は、周到だった。
蒸気砲艦が、長江と大運河を押さえ、兵と物資の流れを確保する。近代の兵器で武装し、西洋式の教練を積んだ部隊が、李秀成ら新世代の指揮官のもとで、整然と進軍していく。工廠から送られてくる弾薬が、補給線を通じて、絶えず前線へと届けられる。
清軍は、各地で敗れた。
北京での戦争に疲弊し、財政も破綻寸前の清朝には、もはや、この近代化された太平天国の軍を、押し返す力は残っていなかった。頼みの綱だった曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍も、列強の後ろ盾を失った今、単独では、じりじりと後退を強いられていった。
戦況の報告を受けるたびに、俺は、それを整理し、次の指示を出した。どこを衝き、どこを固め、どこで兵を休ませるか。前線の将たちの働きを、後方から、文書と数字で支える。それが、俺の戦場だった。
だが、この快進撃のさなか、俺の心には、一つ、晴れないものがあった。
兄貴だった。
久しぶりに天王府を訪れた俺は、その奥で、変わり果てた兄貴の姿を見た。
かつて、あの熱病の中で天の使命を確信し、村を追われながらも布教に情熱を燃やした兄貴。長江を下り、天京を定め、この国の頂に立った兄貴。その面影は、もう、そこにはなかった。
天王府の奥深く、幾重にも女官に囲まれて、兄貴は、現実から遠く離れた場所にいた。政の話をしても、上の空だった。かわりに、兄貴の口から流れ出てくるのは、天上の幻視の話ばかりだった。天父と、天兄と、自分が交わした言葉。天の国の荘厳な光景。それらを、うっとりとした表情で繰り返し語った。
「弟よ。地上のことは、もうどうでもよいのだ。我らはいずれ、天の国へ帰る」
俺は、その言葉に、静かに頷いた。
——病んでいる。完全に。
地上の統治を、兄貴はもう、何も見ていなかった。それどころか、近頃は、実の兄たち——俺から見れば従兄にあたる、洪仁発、洪仁達といった、無能な身内を、次々と要職に据え始めていた。血縁というだけで引き上げられた彼らは、実務の能力もないまま、俺が築いた仕組みに、あちこちで口を挟んでは、混乱を撒き散らしていた。
——皮肉なもんだ。
コネなしで詰んで、この世界に来た俺が、今度は、無能な身内のコネに足を引っ張られている。血縁で人を引き上げる愚かさを、俺は誰よりも知っていた。だからこそ、選抜制度で実力の物差しを作ったのだ。それを、兄貴は、天王の権威でいとも簡単に踏み荒らしていく。
だが俺は兄貴を責める気にはなれなかった。
この病んだ兄貴こそが、俺の権力の源泉だった。上帝の次子、天王という神聖な看板。それがあるからこそ、俺はその下で実権を握っていられる。兄貴が現実から遊離し、天上の幻に溺れてくれているからこそ地上の統治はまるごと俺の手に委ねられている。
——兄さん。あんたはそのまま、天の夢を見ていてくれ。
俺は、内心でそう語りかけた。
それは冷徹な計算であると同時に、どこか憐憫にも似た感情だった。俺はこの兄をずっと利用してきた。誘導し、書き換え、看板として祭り上げてきた。だが、その兄が、こうして現実を手放し、幻の中に安らいでいる姿を見ると、胸の奥がわずかに疼いた。
この人はもしかしたら、最初から地上の王になどなりたくなかったのかもしれない。ただ天の使命を信じそれを人々に伝えたかっただけの一人の男だったのかもしれない。その純粋さを俺は統治の道具として、使い尽くしてきた。
「兄さん。地上のことは俺に任せてください。兄さんはどうか天の国のことをお考えください」
俺がそう言うと兄貴は穏やかに微笑んだ。
「うむ。お前がいてくれて良かった。お前だけは私を裏切らぬ」
——裏切らぬ、か。
俺はその言葉に頭を垂れるほかなかった。俺ほど兄貴を利用し尽くしている人間はこの国のどこにもいない。それを兄貴は、忠実な弟の献身と信じきっている。
天王府を辞し、俺は北伐の戦況図が広げられた執務室へと戻った。
病んだ兄を看板に掲げ、無能な身内の妨害をいなしながら、それでもこの国は清朝の心臓へと着実に迫っていた。
——もう少しだ。もう少しで、清が終わる。
俺は、戦況図の上にまた一つ勝利の印を書き加えた。




