終章 皇帝なき中華
——後世、ある歴史家は、こう記している。
太平天国は、清を滅ぼし、新たな中華の王朝として、この大陸に君臨した。その体制は、天王を神聖な象徴として戴きながら、実際の統治は、出自を問わぬ選抜によって登用された、実務の官僚機構が担う、特異なものであった。神聖なる血統は玉座に座り、しかし玉座の外の機構が、国を精密に動かす。人はこれを、皇帝の顔をもちながら、皇帝の実を持たぬ国、と評した。
またかつて、一人の歴史家は、こう論じたことがある。太平天国が仮に成功していたとしても、それはいずれ、皇帝なき中国の挫折となったであろう、と。皇帝という絶対の求心力を欠いた統治は、必ずや分裂し、崩壊する。中華には、専制の皇帝が要る。それを持たぬ国は、あり得ぬ幻に過ぎぬのかも知れぬと。
だが、この新しい中華は、その予言を、覆した。
初代天王の死後、その空白を埋めるべく、天王の弟が、諸将に推されて、帝位に就いた。だが、この男は、その座を、一代限りと定めた。自らの一族に世襲させることを拒み、己の死後は、帝位を天王の血統へと返すと、即位のその日に、宣言したのである。彼は、みずから皇帝の座に就きながら、その一代で、皇帝という座から、世襲という私物化の本質を、抜き取ってみせた。皇帝の位を、個人が握るものではなく、国を安んじるために通過する「機能」へと、作り変えたのだ。
その約定の通り、彼の死後、帝位は天王の血を引く者へと返された。以後、神聖なる血統は玉座に座り、実務の機構が、その下で国を動かす。皇帝を、消したのではなかった。皇帝から、その中身を——生身の権力を、抜き取ったのだ。そして、万民が頭を垂れる、超越的な求心力の核だけを、空洞の象徴として、残した。多様と分権という甘い理想に流れず、かといって、専制という古い檻にも戻らず。その、狭く険しい道を、この国の設計者は、通り抜けてみせた。
皇帝なき中華は、幻想ではなかった。
ただ、皇帝を消すのではなく、皇帝から中身を抜く、というただ一手を、それまでの誰も、思いつかなかっただけであった。
東の海の向こうでは、清朝の遺臣・李鴻章を迎えた島国が、大日本帝国として、恐るべき速さで近代化を遂げていった。大陸に出現した巨大な新中華への恐怖と危機感が、その歩みを、史実よりもなお加速させたのである。
だが、二つの国が、正面から雌雄を決することは、ついになかった。
新中華は、島国の本土に攻め入らなかった。ゲリラ戦の泥沼にはまり、割に合わぬ統治の重荷を背負うくらいなら、海の道を押さえ、交易を握り、身動きを封じるだけで十分だと、その設計者は見切っていた。一方の島国も、規模で圧倒する新中華の本土に手を出す愚は、犯さなかった。かわりに、その牙は、北から南下してくる、もう一つの巨大な帝国——ロシアへと向けられていった。李鴻章は、みずから新中華に一矢報いるつもりで島国を強兵へと導きながら、その実、大陸の設計者にとっては、北の脅威を無償で受け止めてくれる、都合のよい防壁を築いていたに過ぎなかった。
かくして、東アジアには、二頭の獅子が、睨み合う均衡が生まれた。大陸に横たわる、一つにまとまった巨大な中華。海に立つ、鋭く研ぎ澄まされた島国の帝国。その二頭が互いを見据えて動かぬ限り、列強といえども、そこに手を差し入れる隙は、どこにもなかった。
——そして、史実が知るような、中国が瓜のように列強に切り分けられる未来は、ついに、訪れなかった。
アヘンの戦火に始まった、あの屈辱の入り口だけは、この設計者とて、閉ざすことはできなかった。だが、その先に待っていたはずの、分割され、食い荒らされ、切り刻まれていく大陸の運命は――強く一つにまとまったこの中華の前に、そもそも、起こりようがなかったのである。
この、機会には万民に開かれ、権力は一点に束ねられた帝国は——その設計者の名を、正史の表舞台に、大きく残すことはなかった。一代限りの中継ぎの帝として、みずから望んで歴史の脇へと退いたその男の事績は、天王とその血統の栄光の陰に、多くを、沈めている。
だが、その男が引いた一本の設計図の上を、この大陸は、その後、長く歩んでいくことになる。
コネもなく、家柄もなく、名もなき一人の男が——誰にも知られぬまま、確かに、歴史そのものを、書き換えたのだった。
*
俺は、筆を置いた。
執務室の窓から、天京の街を見下ろす。新しい国が、今日も、俺の引いた線の通りに、動いている。
誰も、俺のことなど、正しくは覚えていないだろう。歴史が輝かしく記すのは、神聖なる天王であり、その血を継ぐ王朝だ。一代限りの、中継ぎの帝。みずから望んで、その座を血統に返し、歴史の脇へと退いた一人の男のことを、後世は、ろくに知りもしないだろう。
——それで、いい。
俺は、静かに笑った。
名など、どうでもよかった。日本にいた頃、あれほど渇望した承認も、今となっては、どうでもよかった。俺は、確かに、この世界を、この手で動かした。俺の思考が、俺の設計が、日本より遥かに大きいこの巨大な大陸の運命を書き換えた。その事実だけが、俺の中に、静かに、揺るぎなく、在った。
歯車ですらなかった男は、いつのまにか、歴史そのものを回す、一本の軸になっていた。
ふと、東の海の向こうを思った。
李鴻章を得た、あの島国。俺を歯車としか見なかった、かつての母国。今や、北のロシアと睨み合い、大陸のこの俺とも睨み合う、一頭の獅子に育ちつつある。
——あの国も、いつのまにか、獅子になったもんだ。
本土を攻める気は、俺には、なかった。海を押さえ、交易を握り、身動きを封じておけば、それで十分だ。北から下ってくるロシアの相手は、あの島国に、せいぜい務めてもらえばいい。李鴻章は、俺に一泡吹かせるつもりで、俺の防壁を、せっせと築いてくれている。ご苦労なことだ。
二頭の獅子が睨み合う限り、列強も、うかつには手を出せない。かつて、瓜のように切り刻まれるはずだったこの大陸は、もう、誰にも分割させない。
窓の外で、俺の作った国が、どこまでも広がっている。
——さあ。続きを、作ろうか。
俺は、また、新しい一枚の紙を、机の上に広げた。
(了)




