第36話 清、傾く
1860年。北の空が、大きく動いた。
アロー戦争の決着だった。イギリスとフランスの連合軍が、ついに清朝の都・北京にまで攻め込み、皇帝の離宮・円明園を焼き払った。清朝は、屈辱的な条約を呑まされ、咸豊帝は都を捨てて熱河へと逃れた。
——清朝の権威が、地に落ちた。
俺は、その報せを、天京の執務室で受け取った。
この瞬間こそ、俺がずっと待っていた分岐点だった。
史実では、この後、太平天国は、破滅への坂を転げ落ちていった。北で列強と講和を果たした清朝は、その手が自由になると、南の太平天国の鎮圧に、全力を注ぎ始めた。そして——かつては中立を装っていた列強までもが、清朝の側についた。
なぜか。
史実の太平天国が、上海に手を伸ばし、列強の通商利権を脅かしたからだ。ゴードン率いる常勝軍という外国人部隊が組織され、清朝の側に立って、太平天国に牙を剥いた。李鴻章の淮軍と、この常勝軍が、太平天国を東から圧迫し、じわじわと締め上げていった。列強に見捨てられ、いや、敵に回された太平天国は、もはや、清朝と列強の連合を相手に、勝ち目を失っていった。
——だが、この世界は、違う。
俺は、上海に、一切、手を出していなかった。
租界も、外国商人も、海関も、指一本触れていない。それどころか、あの「正しい教科書」と、慎重な交渉で、列強との関係を、着実に育ててきた。
その差が、今、決定的な形で現れようとしていた。
北京での戦争を終えた列強は、次に、南の情勢に目を向けた。史実であれば、彼らは迷わず清朝側について、太平天国を叩いたはずだった。
だが、今回は、違った。
「我々は、貴国の通商を、一度たりとも脅かしていない。上海は、平穏そのものだ。それに——清朝は、あなたがたと戦い、あなたがたの都を焼かれた相手だ。対して我々は、あなたがたと同じ神を戴き、あなたがたと友誼を結ぼうとしている。さて、どちらと手を組むのが、賢明でしょうか」
俺は、列強の使節に、静かにそう問いかけた。
列強は、動かなかった。
少なくとも、清朝の側について、太平天国を叩くという選択を、彼らは取らなかった。上海の利権が守られている以上、彼らにとって、どちらが中国を制しても、商売さえできればよかった。そして、円明園を焼いたばかりの清朝に肩入れするより、恭順で、話の通じる太平天国と付き合う方が、余程、得策に見えた。
常勝軍は、組織されなかった。
史実で太平天国を苦しめた、あの外国人部隊は、この世界には、存在しなかった。列強を敵に回さなかったというただ一点が、歴史の流れを、まるごと変えていた。
——列強という、最大の変数を、俺は消した。
残るは、清朝と、それを支える漢人の義勇軍——曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍だけだった。手強い相手ではある。だが、列強の後ろ盾を失った清朝は、もはや、かつての清朝ではなかった。北の戦争で疲弊し、権威を失い、財政は破綻寸前。その足元は、大きく揺らいでいた。
俺は、この好機を、逃すつもりはなかった。
近代化された太平天国の軍。列強の中立。清朝の疲弊。すべての条件が、揃いつつあった。
——さあ、攻勢の番だ。
俺は、育て上げた将たちを、呼び集めた。李秀成をはじめ、あの選抜制度をくぐり抜けた、新しい世代の指揮官たち。彼らは、旧来の荒くれ者とも、机上の空論家とも違う、武を知り、近代の兵器を操る、新しい軍の担い手だった。
「清朝は、もう長くない。列強は、動かない。ここから、攻勢に転じる」
俺の言葉に、将たちの目が、光った。
史実では、列強と清朝の連合に押し潰されていくはずだった太平天国が、この世界では、逆に、清朝を追い詰める側に回ろうとしていた。
——ギャップというやつは、恐ろしいもんだな。
俺は、内心で薄く笑った。たった一つ、上海に手を出さないという判断。たった一冊、異端を薄めた教義書。その積み重ねが、見捨てられる側と、追い詰める側とを、これほどまでに、分けてしまう。
歴史は、大きな英雄の一撃ではなく、こういう地味な判断の差で、静かに、しかし決定的に、傾いていく。それを、俺は誰よりも知っていた。
天京の空の下、太平天国の軍が、清朝打倒へ向けて、動き始めた。
——清を、終わらせる。俺の手で。




