第32話 洋兄弟
1858年の春、俺は天京で、一人のイギリス人と向かい合っていた。
上海の領事館から派遣されてきた、外交官だった。アロー戦争の最中、清朝と戦火を交えながらも、列強は長江流域の情勢——とりわけ、この太平天国という勢力の出方を、注意深く探っていた。彼らにとっても、清朝一辺倒に肩入れするのは、まだ得策ではなかったのだ。
交渉の席に着く前、俺は自分に、何度も言い聞かせていた。
——焦るな。ここで欲をかけば、全部が壊れる。
史実の太平天国が、どこで列強との関係をこじらせたか。俺は、嫌というほど知っていた。使節を朝貢の使者のように見下し、対等な交渉を拒み、挙句、上海に軍を差し向けて、彼らの通商利権を脅かした。それが、列強を清朝の側へと決定的に追いやった。
同じ轍は、絶対に踏まない。
「遠路、よくお越しくださいました」
俺は、丁重に、しかし卑屈にならない態度で、相手を迎えた。朝貢国の使者としてでもなく、屈服すべき強者としてでもなく、対等な取引相手として。
まず、俺は最も重要な一点を、はっきりと約束した。
「上海の租界、貴国の商人、そして海関の運営について。我々太平天国は、これを一切、脅かすつもりはありません。むしろ、この地の商業秩序を守ることこそ、我々の利益にも適うと考えています」
相手の外交官の眉が、わずかに動いた。予想していた居丈高な態度とは、まるで違ったからだろう。
俺は続けた。
「清朝が貴国と結んだ、いくつかの条約についても、我々は当面、これを尊重いたします。その上で、いずれ然るべき時が来れば、対等な立場で、改めて協議させていただきたい。今すぐ何かを覆すつもりは、ありません」
——旧条約は、一時承認。ただし再交渉は予定する。
いきなり不平等条約の破棄を掲げれば、列強は迷わず清朝を選ぶ。だが、「今は認める、いずれ話し合う」という段階論なら、彼らの警戒を解きながら、こちらの立場も保てる。日本が、この後の時代に、まさにそうやって列強と渡り合っていくはずだった。俺は、その手を、数十年早く使っているだけだ。
外交官の表情に、明らかな安堵と、そして興味の色が浮かんだ。
頃合いを見て、俺は、あの一冊を差し出した。
「これは、我々の信仰について、貴国の言葉で記したものです。お目通しいただければ」
列強向けに書き直した、あの「正しい教科書」だった。
洪秀全が上帝の教えを地上に伝える僕であること。天上の家族の物語は、東洋的な敬愛の比喩であること。そして——清朝が、儒教、仏教、道教という数多の偶像を拝む多神教の帝国であるのに対し、我ら太平天国こそ、唯一神を奉じる、西洋と信仰を同じくする勢力であること。
外交官は、その書物を、しばらく無言でめくっていた。
「……興味深い」
彼は、そう呟いた。異端だ冒涜だと顔をしかめる、あの反応は、出てこなかった。当然だ。彼らが最も嫌う部分を、俺は最初から、注意深く削り落としておいたのだから。
「清朝は、貴国にとって、しょせん異教の帝国に過ぎません。ですが我々は、同じ神を戴く者です。どちらと手を組むのが、文明の理に適い、そして——商売として得か。賢明な貴国であれば、お分かりいただけるはずです」
俺は、利益の話に、正しさの衣をそっと着せてやった。人は、利益だけでは動かない。だが、利益に大義名分が加わったとき、人は気持ちよく、こちらの望む方へ動く。
交渉は、その日、何かが劇的に決まったわけではなかった。列強が、すぐに太平天国の側についたわけでもない。
だが、確かに、空気は変わった。
少なくとも、この外交官は、太平天国を「野蛮な反乱集団」ではなく、「話の通じる、計算のできる相手」として見始めていた。朝貢外交で心を閉ざさせた史実とは、明らかに違う入り口が、ここに開いた。
外交官を見送った後、俺は執務室で、一人、長い息を吐いた。
——第一歩だ。まだ、ほんの第一歩。
列強を、完全に味方につけるには、まだ遠い。だが、少なくとも、彼らを敵に回すという最悪の未来は、今日、一つ遠ざけた。上海を刺激せず、条約を一時承認し、信仰の衣で大義を整える。この慎重な積み重ねの先に、いつか、天秤がこちらへ傾く日が来る。
窓の外には、天京の街並みが広がっていた。この街を、そしてこの大陸を、俺は列強と清朝の狭間で、慎重に、しかし着実に、動かし始めていた。
ふと、東の海の向こうを思った。
——今頃、あの国は、まだ揉めてるんだろうな。
日本。俺が生まれ育った、あの島国。この時代、黒船に叩き起こされて、攘夷だ開国だと、国じゅうが上を下への大騒ぎをしているはずだった。異人を斬れと息巻く志士たち、右往左往する幕府、腰の定まらない諸藩。誰も彼もが、外圧を前に、まとまることもできずに、貴重な時間を空費している。あの国が、その混乱を抜けて明治という時代に辿り着くまでに、まだ十年からの歳月がかかる。
その間に、俺は。
攘夷か開国かなんて、下らない二択で立ち止まったりはしない。列強は交易がしたいだけだと、俺はもう知っている。だったら、斬り合う必要も、怯える必要もない。慎重に手を取り、利用できるものは利用し、その先へ進むだけだ。
——日本が攘夷だ開国だで揉めている間に、俺は先に行く。
あの国が黒船の衝撃から立ち直るより早く、この大陸に、近代の統一国家を打ち立てる。儒教という古い物差しを捨て去った、まっさらな土台の上に。日本の明治よりも早く、そして徹底的に。
俺を歯車としか見なかったあの国の、一歩も二歩も先へ。
——さあ、次は内政だ。この国の中身を、作り変える番だ。




