第31話 正しい教科書
列強を抱き込むための下準備として、俺がまず取りかかったのは、一冊の書物を作ることだった。
太平天国の教えを、西洋人に向けて説明するための、公式の教義書。ただし——兄貴が本当に信じている教えを、そのまま書くわけにはいかなかった。
問題は、はっきりしていた。
兄貴は、自らを上帝の次子、すなわちイエス・キリストの弟であると称している。この一点が、正統なキリスト教から見れば、許しがたい異端だった。史実でも、初めは太平天国に期待を寄せた西洋の宣教師たちが、まさにこの教義を知って、一斉に幻滅し、離れていった。神の子は、イエスただ一人。そこに「弟」を付け加えるなど、彼らの信仰の根幹を揺るがす冒涜に他ならなかった。
——だったら、その部分を、そっと薄める。
俺は、筆を執った。
国内向けの教えは、これまで通りでいい。天父、天兄、天王という天上の家族の物語は、信徒を束ね、兵を戦わせるために、欠かせない。あれは、そのまま掲げておく。
だが、列強向けの教義書は、別物だ。
俺は、洪秀全がイエスの弟であるという記述を、注意深く言い換えた。それは字義通りの血縁ではなく、東洋的な比喩なのだと。天王は、上帝の教えを地上に伝えるために遣わされた僕であり、その敬愛の深さを「子」や「弟」という言葉で表しているに過ぎない、と。三位一体の教義とも、決して矛盾するものではない、と。
——我ながら、よく書けたもんだ。
書きながら、俺は内心で苦笑していた。神学の素養なんて、俺にはない。あるのは、日本にいた頃、海外ドラマや教養本でかじった程度の、うろ覚えのキリスト教知識だけだ。だが、営業で鍛えた「相手の欲しい言葉を、相手より先に用意する」技術は、こういうときにこそ生きた。西洋の宣教師が、何を聞けば安心し、何を聞けば怒るか。その勘所さえ押さえれば、あとは体裁を整えるだけだった。
教義書には、もう一つ、重要な物語を盛り込んだ。
清朝は、儒教、仏教、道教――数え切れない偶像を拝む、多神教の異教帝国である。それに対し、我ら太平天国は、唯一神・上帝のみを奉じる。すなわち、我々こそ、西洋の文明と信仰を同じくする、東洋における唯一の同志である、と。
——これで、清朝と太平天国の、どちらが「文明の側」か。分かりやすくしてやった。
列強が清朝を助けるのは、単なる利権の計算だ。だが、そこに「信仰を同じくする者を助けるべきだ」という大義名分を差し込んでやれば、天秤は、確実に揺らぐ。人は、利益だけでは動かない。利益に、正しさの衣を着せてやったとき、初めて、気持ちよく動く。それは、証券を売っていた頃に、嫌というほど学んだことだった。
草案が仕上がっていくにつれて、俺の中に、抑えきれない高揚が湧き上がってきた。
——これが、上手くいけば。
俺は、机に広げた教義書の草案を眺めながら、その先の光景を、思い描いていた。
この一冊で、列強を味方につける。清朝は、南の太平天国と、北の列強に挟まれ、立ち行かなくなる。そうなれば、この国が清に取って代わる日は、そう遠くない。そして——太平天国が、近代化された統一国家として、この大陸に立ち上がる。
俺が知っている歴史では、この後、東の海の向こうで、日本という国が、猛烈な勢いで近代化を遂げるはずだった。黒船に叩き起こされ、幕府を倒し、明治という新しい時代を築いて、瞬く間に列強の仲間入りを果たす。あの、俺が生まれ育った国が。
だが、もし俺が上手くやれば。
——日本より、先に行ける。
この大陸に、日本の明治維新よりも早く、近代的な統一国家を打ち立てる。しかも、清朝のような「中体西用」の中途半端な近代化ではない。儒教という古い物差しを、根こそぎ捨て去った、まっさらな土台の上に。日本が黒船に慌てて近代化を始めるより、もっと早く、もっと徹底的に。
あの国に、先んじる。
俺を、歯牙にもかけなかったあの国。ガクチカがない、コネがない、実績がないと、俺という人間を、いてもいなくても同じ歯車のように扱ったあの国より、俺は先に、歴史の一歩先へ、この大陸を運んでみせる。
——見てろよ。
俺は、筆に墨を含ませ、教義書の続きを書き進めた。
執務室の灯りの下で、一冊の「正しい教科書」が、少しずつ、形になっていった。それは、神を信じない男が、神の名を騙って、一つの国の運命を動かすための、冷徹な設計図だった。




