第30話 空いた椅子
天京事変の後、太平天国には、大きな空白が残された。
東王・楊秀清という、軍と政の実務を一手に握っていた巨大な柱が、一夜にして消えた。史実であれば、この後さらに韋昌輝が暴走し、石達開が離脱して、指導部が総崩れになるはずだった。だが、俺が命令書の射程を絞ったおかげで、石達開の一族は無事に残り、韋昌輝の暴走も最小限に抑え込まれた。
それでも、東王が抜けた穴は、あまりに大きかった。
——この椅子を、誰が埋める。
答えは、決まっていた。
俺は、兄貴のもとへ赴いた。憔悴し、東王を失った恐怖と安堵の入り混じった顔をした兄貴に、俺は静かに申し出た。
「兄さん。東王が担っていた実務、これからは俺が引き受けます。軍の差配は、しかるべき将に任せ、俺はその全体を、文書と制度で束ねます。兄さんは、これまで通り、天王として、この国の頂に在ってください」
兄貴は、しばらく俺の顔を見ていた。
弟。血を分けた、ただ一人の身内。楊秀清のように、天父の声で自分を脅かすこともなく、韋昌輝のように、血に酔って暴走することもない。ずっと傍で、地味な記録を続けてきた、無害に見える弟。
「……お前になら、任せられる」
兄貴は、そう言って頷いた。
——取った。東王の椅子を、丸ごと。
俺は深く頭を垂れながら、内心で静かに拳を握った。天父下凡のような派手な権威は、俺にはない。だが、その必要もなかった。俺は「兄貴の信頼できる弟」という、何より確実な足場から、この国の実権に手をかけた。
もっとも、椅子に座ったからといって、浮かれている暇はなかった。
北では、清朝が、列強との戦争の真っ只中にあった。アロー戦争——イギリスとフランスが、清朝を相手に、新たな戦端を開いていた。清の目は今、南の太平天国よりも、北から迫る西洋列強の脅威に、釘付けになっている。
——この機を、逃す手はない。
俺は、これまで史実で太平天国が犯してきた、外交上の致命的な失敗を、よく知っていた。
かつて、イギリスの使節が天京を訪れたとき、太平天国は列強を「朝貢国」として扱おうとした。西洋の国々が、天王に貢物を捧げに来た、という中華思想の枠組みで応対したのだ。対等な交渉ができるはずもなく、列強の心は、静かに離れていった。
——あれは、下策も下策だ。
俺の頭の中には、日本の幕末の記憶があった。
黒船が来航し、日本中が攘夷だ開国だと大騒ぎになった、あの時代。だが、後から歴史を眺めれば、はっきり見えることがあった。列強は、日本を滅ぼしに来たわけではなかった。彼らが本当に欲しかったのは、交易だった。港を開き、商売をし、利益を上げること。それが目的で、無闇に土地を占領したり、殲滅戦を仕掛けたりするのは、彼らにとってもコストが高すぎて、割に合わなかった。
薩摩は、一度イギリスと撃ち合った。だが、その後どうなった。互いの実力を認め合って、むしろ手を組んだ。列強は、手強い相手とは、殴り合うより、取引する方を選ぶ。
——こいつらは、交易がしたいだけだ。無理に攻めてはこない。
この確信が、俺にはあった。歴史を知っているからこその、確信だった。
だとすれば、太平天国が取るべき態度は、明らかだった。朝貢国扱いなどという、時代錯誤の傲慢さは捨てる。かといって、卑屈になる必要もない。列強を、対等な取引相手として遇し、そして——彼らの心をくすぐる、一枚のカードを切る。
「我々は、あなたがたと同じ、唯一神を奉じる者です。清朝という、偶像を拝む古い異教の帝国を倒す、あなたがたと同じ側の、改革の勢力です」
この物語を、列強に売り込む。清朝を助けるより、太平天国と手を組む方が、文明の側として正しく、そして商売としても得だ、と思わせる。
もちろん、そのためには、兄貴のあの教義——自らをイエスの弟と称する、あの正統派から見れば異端そのものの部分を、どうにか取り繕う必要があった。だが、それは追い追い、手を打てばいい。
俺は、執務室の机に、一枚の紙を広げた。
列強との、新しい外交の方針書。まだ、下書きの段階だった。実際に動くには、近代化された軍も、整った官制も、まだ足りない。準備は、これからだ。
だが、方向は、定まった。
——清が列強に叩かれている、今このときこそ、天秤を俺たちの側に傾ける好機だ。
俺は、空いた東王の椅子に座り、初めて、この国全体の舵を、自分の手で握った実感を噛みしめていた。
やることは、山ほどあった。軍の再編、法の整備、人材の登用、そして列強との駆け引き。そのどれもが、これまで頭の中の帳面に書き溜めてきた構想を、初めて現実に試す舞台だった。
——さあ、始めよう。俺の国の、本当の設計を。




