第29話 その夜——天京事変
1856年の夏、その時は、ついに来た。
きっかけは、史実の通りだった。楊秀清が、天父下凡の儀式の場で、ついに「万歳」の称号を要求したのだ。
万歳——それは、天王・洪秀全ただ一人に許された称号だった。九千歳の東王が、それを求めるということは、天王と並ぶ、いや、天王を超える地位を、公然と求めるということに他ならなかった。
兄貴は、表向きは笑顔で「東王の功績を思えば当然のこと」と応じたという。だが、その裏で、密かに動いていた。
当時、天京を離れて前線にいた北王・韋昌輝に、密使が送られた。東王を除け、と。
——来た。ついに、来た。
俺は、その報せを掴んだ瞬間、動いた。
兄貴の密命は、曖昧だった。「東王を除け」——ただそれだけ。この曖昧さこそが、史実で惨劇を生んだ元凶だった。射程の定まらない命令は、実行者の裁量と激情に委ねられ、際限のない殺戮へと膨れ上がる。
俺は、兄貴のもとへ急いだ。
「兄さん。北王への命令、俺に清書させてください」
兄貴は、憔悴した顔で俺を見た。楊秀清への恐怖と、これから起こすことへの怯えで、兄貴はもう、まともに頭が回っていなかった。
「……お前に、任せる」
その一言で、十分だった。
俺は、筆を執った。兄貴の意を汲む形を取りながら、その一文字一文字を、極限まで研ぎ澄ませた。
東王・楊秀清、およびその謀反の中枢にある者のみを誅すべし。東王府の兵、都の民、他の諸王とその配下には、一切、手を出すことを禁ず。これに背く者は、天王の名において、同じく罪に問う。
——これでいい。射程は、絞り切った。
命令書に、天王の印が押された。俺はそれを、北王への密使に託した。
その夜、天京は血に染まった。
韋昌輝の兵が、東王府を急襲した。楊秀清は、その圧倒的な権勢の絶頂で、あっけなく討たれた。天父の声を代弁した男。長江を下りきった軍神。この国の誰もが恐れ、そして惹きつけられた傑物が、たった一夜で、この世から消えた。
だが——そこで、止まった。
史実であれば、ここから韋昌輝の暴走が始まるはずだった。東王の一族、部下、信徒を数万人単位で殺し尽くし、抗議する者まで手にかける、あの連鎖する惨劇。
それが、起きなかった。
命令書の文言が、韋昌輝の手を縛った。東王とその中枢のみ。それ以外に手を出せば、天王の名において、今度は自分が罪に問われる。北王は、その一線を越えることが、できなかった。越えれば、大義名分を失い、返り討ちに遭う。俺が仕込んだ一文が、韋昌輝の激情に、確かな首輪をはめていた。
夜が明けたとき、天京は静けさを取り戻していた。
死んだのは、楊秀清とその側近たち、ほんの一握りだけだった。数万人が死ぬはずだった惨劇は、標的を絞った、外科手術のような排除に留まった。石達開の一族も、無事だった。この国の頭脳は、東王ただ一人を失っただけで、他は、そっくり残った。
俺は、明け方の天京を、執務室の窓から眺めていた。
——終わったな。
達成感は、なかった。あったのは、静かな、少し苦い感慨だけだった。
楊秀清。あんたは、俺なんかより、ずっと優れた男だった。もしあんたが、あのまま増長せず、兄貴を立て続けていれば、この国は、もっと違う形になっていたかもしれない。だが、あんたは強くなりすぎた。そして、俺はあんたが強すぎることを、放っておけなかった。
これは、俺がやったことだ。兄貴の密命でも、韋昌輝の刃でもない。あの命令書の一文を書いたのは、俺だ。傑物一人の命を、この国の安定と引き換えに、俺が計算ずくで抜き取った。
——結局、俺がやってることは、楊秀清と同じか。
天父の声で兄貴を操ったあの男と、文書と解釈で兄貴を操る俺。手段が違うだけで、本質は何も変わらない。ただ、俺の方が、少しだけ上手くやった。それだけの話だった。
窓の外で、天京の街が、いつもの朝を迎えようとしていた。東王という巨大な影が消えた、その空白の中心に、俺は静かに立っていた。
——さあ。ここからは、本当に、俺のターンだ。




