第28話 東王の影
天京に都を定めてから、二年、三年と時が過ぎるうちに、楊秀清の権勢は、いよいよ天を突くほどに膨れ上がっていた。
東王・九千歳。天父の声を代弁する者。軍と政の実務を一手に握る、事実上の宰相。もはや太平天国において、楊秀清に逆らえる者は、天王である兄貴ですら、いなかった。
——いや、兄貴こそが、一番逆らえなくなっている。
俺は、その危うい光景を、すぐ近くで見ていた。
天父下凡——楊秀清が、上帝そのものを憑依させたと宣言するあの儀式は、この頃には、もはや政治の道具そのものになっていた。上帝の声として発せられた言葉には、天王でさえ従わなければならない。楊秀清はそれを使って、少しずつ、しかし確実に、兄貴の頭上に立ち始めていた。
ある時など、兄貴が些細な過ちを咎められ、天父の声を宿した楊秀清の前で、杖打ちの罰を受け入れさせられる、という事件まで起きた。
天王が、臣下の前で、頭を垂れて罰を受ける。
その報せを聞いたとき、俺は執務室で、しばらく動けなかった。
——ここまで来たか。
楊秀清は、もう単なる有能な家臣ではなかった。天上の権威を盾に、地上の序列そのものを、覆しかけていた。このまま行けば、遠からず、この男は「東王」の位置では収まらなくなる。九千歳の次は、万歳——すなわち、天王と並ぶ、あるいはそれを超える地位を、求め始めるだろう。
史実の通りだった。何もかも、俺の知っている通りに進んでいる。
そして、この膨れ上がった東王の権勢に、誰よりも危機感を募らせている男がいた。
北王・韋昌輝。
永安以来の古参でありながら、楊秀清の下に甘んじてきたこの男の目には、東王への恐怖と、押し殺した憎悪が、日に日に濃くなっていた。表向きは東王に恭順を装いながら、その内側で、韋昌輝が何かを煮詰めつつあるのを、俺は感じ取っていた。
——火種は、もう十分に乾いている。
東王の増長と、北王の憎悪。この二つがぶつかったとき、太平天国は、自らの手で自らを引き裂く。それが、俺の知る歴史だった。数万の人間が死に、有能な指導者が次々と失われ、この国が再起不能の傷を負う、あの大惨事——天京事変。
だが、俺は知っている。
あの惨劇が、なぜあそこまで膨れ上がったのかを。
史実では、韋昌輝が命令の枠を超えて暴走した。東王一人を除くだけでは飽き足らず、その一族、その部下、その信徒まで、数万人を殺し尽くした。抗議した翼王・石達開の一族まで手にかけ、挙句、暴走した韋昌輝自身も処刑される。連鎖する報復が、この国の頭脳を、根こそぎ刈り取ってしまった。
——そこだ。そこさえ、抑えられれば。
俺は、密かに、一つの文書を練り始めていた。
いずれ来るその日、韋昌輝が東王に牙を剥くその瞬間に、彼の手に握らせるための命令の文言。東王・楊秀清、ただ一人を除く。それ以外の者には、一切、手を出させない。報復の連鎖が起きる余地を、最初から、一文字も残さない。射程を、極限まで絞り込んだ命令書。
清書役として、文書を扱う俺だからこそ、できることだった。何が「正式な命令」になるか。その一文をどう書くか。それを握っているのが、この国では、俺だった。
楊秀清を消すのは、惜しい。あれほどの傑物を盤上から失うのは、この国にとって、間違いなく損失だ。
だが、あの男が生きている限り、俺が兄貴と一体になってこの国を動かす日は、永遠に来ない。そして、あの男の増長を放置すれば、いずれ兄貴そのものが、東王に取って代わられる。
——すまないな、東王。あんたは強すぎた。それだけだ。
俺は、練り上げた文言を、そっと帳面の奥にしまい込んだ。
その日が来るまで、まだ、静かに待つ。火種が、独りでに燃え上がる、その瞬間まで。




