第27話 持ち帰った火種
上海から天京に戻った俺は、持ち帰った洋書と、頭に詰め込んだ知識を、少しずつ制度に落とし込み始めた。
鉄と硝煙の匂いのする、西洋の技術。数字で世界を測る算術。国と国とが利益で殴り合う、外交という名の駆け引き。そのどれもが、この国の骨格を、これから作り変えていくための部品だった。
俺は、自分の執務室に籠もって、来る日も来る日も、書類と向き合った。
徴税の帳簿。人材の名簿。占領地の地図。西洋の兵器の図面。それらを一枚ずつ検討し、指示を出し、人を動かす。俺の一筆で、何十万という民の暮らしが変わり、何千という兵の配置が動く。
——ああ、そうか。これが、俺のやりたかったことだ。
ふと、日本にいた頃のことを思い出した。
証券会社の狭いオフィス。鳴りやまない電話。詰められるノルマ。俺がどれだけ言葉を尽くしても、客も上司も、俺を歯牙にもかけなかった。俺の意見なんて、この世界のどこにも、何の影響も及ぼさなかった。ガクチカがない。コネがない。実績がない。俺という人間は、あの世界では、いてもいなくても同じ、取り替えのきく歯車の一つですらなかった。
それが、どうだ。
今、俺の手の中には、数十万の人間を抱えた、一つの国が転がっている。俺が引く一本の線で、この巨大な機構が、実際に動く。徴税の仕組みが変わり、役人が任じられ、兵が近代の武器で武装していく。俺の思考が、そのまま歴史の形になっていく。
——たまらないな、これは。
あの鬱屈した日々の底で、俺がずっと欲しかったものが、ここにあった。自分の考えが、世界に届くという手応え。無視されない、取り替えられない、確かな影響力。それを、俺は今、清朝という化け物を相手取る反乱国家の中枢で、握りしめている。
もっとも、この国の主役は、まだ俺ではなかった。
東王・楊秀清。天京に腰を据えてなお、この男の存在感は、少しも衰えていなかった。
軍の差配、都の治安、規律の徹底——統治の実務のうち、俺が握った文書行政の外側にある、力と恐怖で人を従わせる領域を、楊秀清は完璧に掌握していた。彼が一声かければ、荒くれ者の兵たちが、水を打ったように静まり返る。天父下凡で兄貴の上にすら立てる宗教的権威と、その圧倒的な統率力。この男は、どこを切り取っても、隙がなかった。
俺は、執務室の窓から、東王府の方角を眺めることがあった。
——かっこいいんだよな、悔しいけど。
認めたくはないが、楊秀清には、俺にはない華があった。人を惹きつけ、恐れさせ、そして信じさせる、生来のカリスマ。俺が裏でこそこそ帳面を厚くしている間に、この男は表舞台のど真ん中で、堂々と人心を掌握してみせる。俺が一生かけても手に入らないものを、あの男は最初から持っていた。
だが、俺には一つだけ、あの男が絶対に持っていないものがあった。
——俺は、この先どうなるかを、知っている。
この栄華が、長くは続かないことを。この国が、いずれ内側から裂けることを。そして、この楊秀清という傑物が、その裂け目の、最初の犠牲になることを。
史実の通りなら、あと数年だ。あと数年で、この東王と、北王・韋昌輝の間の緊張が、破裂する。天京事変——太平天国が、自らの手で、自らの最も有能な頭脳を、切り落とす日が来る。
俺は、それを知っている。知っているからこそ、今、動ける。
あの破裂を、ただの自滅で終わらせるか、それとも俺の描く形に誘導するか。楊秀清という強すぎる駒を、盤上から綺麗に抜き取って、その空いた席に、俺自身が滑り込むか。
——まだだ。まだ、その時じゃない。
俺は窓辺を離れ、机に戻った。今はまだ、火種を仕込む時期だ。近代化の芽を植え、人材を育て、列強という巨大な変数の動きを見定める。その全部が、いつか来るあの分岐点で、俺の手札になる。
執務室の灯りの下で、俺は再び筆を執った。この国の骨格を、一枚、また一枚と、俺の設計図に書き換えていくために。
——楊秀清。あんたは確かに、俺より強い。だが、最後に笑うのは、先を知っている方だ。




