第3話 科挙より大事なもの
兄貴の熱が下がったのは、それから十日ほど経った頃だった。
床上げしてすぐ、兄貴はまた机に向かって四書五経を開いた。当たり前だ。この人にとって科挙こそが人生のすべてで、四十日も寝込んでいた分の遅れを取り戻さなきゃならない。
だが、開いた本の上に視線だけを落として、指はまるで動かなかった。
「兄さん」
俺が声をかけると、兄貴はのろのろと顔を上げた。目の下には、まだ隈が残っている。
「阿玕か。……すまんな、心配をかけた」
「熱の間、色々うわ言を言ってましたよ。覚えてます?」
兄貴の顔が強張った。覚えている、という顔だった。だが言葉にしていいものかどうか、迷っている。
「……夢を見た。妙な夢だ。白い髭の老人がいてな。俺を、我が子と呼んだ」
来た。
俺は表情を変えないように気をつけながら、身を乗り出す真似をした。少年らしい、素朴な好奇心を装って。
「へえ。それで?」
「それで……よく覚えておらん。ただ、剣を渡された気がする。それと——お前は選ばれた者だ、と。そう言われたような……」
兄貴は自分で言っておきながら、途中で恥じるように口をつぐんだ。四度目の落第の直後にこんな話をするのは、正気を疑われても仕方がないと分かっているのだろう。
「馬鹿げてるとは思うんだが」
「馬鹿げてなんかいませんよ」
俺は即座に言った。兄貴が驚いた顔でこちらを見る。
「兄さん、考えてみてください。人が四十日も寝込んで、本当にただの熱にうなされているだけだと思いますか。俺は、あれはただの夢じゃなかったと思う」
もちろん、ただの脳の誤作動だ。史実でもそう解釈されている。だがそんなことを言うつもりは、俺には最初からない。
「科挙なんて、しょせん地上の試験でしょう。試験官は人間だ。人間が人間を、限られた答案用紙の中身だけで測る。そんなもので、兄さんの値打ちが決まるはずがない」
「……阿玕」
「でも今の話が本当なら、兄さんはもっと大きな試験に、もう受かっているんじゃないですか。天の、試験に」
我ながら、よく言葉が出てくるものだと思う。日本にいた頃、契約が渋る客に向かって「今契約しないと損をしますよ」と言い続けていたのと、たぶん構造は同じだ。相手が聞きたい言葉を、相手より一歩早く言ってやるだけでいい。それだけで——
兄貴の目の色が変わるのが分かった。
「天の……試験」
「四度落ちたのは、地上の試験に興味がなかったからかもしれない。上帝様の方が、先に兄さんを選んでいた。だから地上の物差しじゃ測れなかった」
都合のいい理屈だ。因果を逆から並べ直しているだけの、ただの後付けだ。だが兄貴の顔からは、もう疑う色が消えていた。
「そうか……そうかもしれん」
兄貴は開いたままの四書五経を、静かに閉じた。それから、まだ夢の中にいるような目で窓の外を見た。
「俺は、選ばれていたのか」
俺は答えなかった。答える必要がなかった。兄貴はもう、自分一人でその結論に向かって歩き出している。あとは時々、道を逸れないように軽く背中を押してやるだけでいい。
科挙に人生を測られる世界なんて、こっちから願い下げだ。兄さんが最初にそう思ってくれたのは、正直、都合が良すぎて笑いそうになる。
俺は——田中誠改め洪仁玕は、机の下でそっと拳を握った。
これでいい。この「天の試験に受かっていた」という一言が、いつか何百万人もの人間を動かす言葉になる。
まだ何も、始まってすらいないというのに。




