第24話 天京
1853年3月、南京が陥落した。
清朝の江南の要、六朝の古都。太平軍はこの街を「天京」と改め、ここを国の都と定めた。金田村での蜂起から、わずか二年余り。山奥の宗教集団が、清朝の心臓部の一つを、ついに我が物にしたのだ。
入城の日、俺は群衆の熱狂を、間近で見た。
「東王千歳!」
「東王千歳!」
声を張り上げていたのは、湖南・湖北で加わった農民兵たちだった。彼らにとって、この勝利を運んできたのは、天上の神でも、宮殿の奥に鎮座する天王でもない。実際に船団を率い、城壁を破り、道を切り開いてきた、あの東王・楊秀清その人だった。
——軍神、か。
俺は、沸き返る兵たちの顔を眺めながら、内心で唸った。天父の声を代弁するという宗教的な権威。長江を下りきった圧倒的な軍才。そして今、目の前で膨れ上がっている、この生々しい大衆の熱狂。楊秀清は、その三つを、一人で握りつつあった。
兄貴はといえば、入城後、壮麗な天王府の奥に迎え入れられ、神聖な存在として祭り上げられていた。
——完全に、奥に引っ込んじまったな。
俺は、天王府に籠もりがちになった兄貴の様子に、はっきりとした危うさを感じていた。兄貴はもう、日々の実務にはほとんど関わらなくなっていた。徴税も、軍の差配も、都の統治も、その一切を、兄貴は東王に委ねきっていた。
「東王に任せておけば、間違いない」
兄貴は、俺と二人のとき、何度もそう口にした。その声には、疑いの欠片もなかった。天兄イエスへの信仰と同じ響きで、兄貴は楊秀清を信じ切っていた。
——これは、まずい。まずすぎる。
解釈権は、まだ俺が握っている。だが、兄貴の日々の信頼という一番柔らかい部分を、楊秀清はもう、ほとんど手中に収めていた。このまま放っておけば、兄貴は文字通り、東王の掌の上の飾り物になる。
だが、俺はそこで、焦りを噛み殺した。
——待て。ここからだ。ここからが、俺の番だ。
城が落ち、都が定まった。その瞬間、戦は一段落した。そして戦が終われば、軍神の出番も、いったんは終わる。
都を治めるというのは、城壁を破るのとは、まったく別の仕事だ。何十万という人間を食わせ、税を集め、秩序を作り、役人を選び、文書で回——この気の遠くなるような統治の実務は、天父の声でも、軍才でも、大衆の熱狂でも、片付かない。
そして、それをやりたがる人間は、どこにもいなかった。
華々しい戦働きに比べて、徴税や文書行政は、地味で、面倒で、誰の目にも留まらない。老兄弟たちは王として君臨することにばかり気を取られ、統治の設計図を引こうとする者は、一人もいなかった。
——だったら、俺がやる。
俺は、これまで温めてきた帳面を、初めて表に出す決意をした。人材の目星。選抜の草案。共通教育の構想。全部、この統治のフェーズでこそ、力を発揮する。
楊秀清が手が出せない領域。軍神が興味を持たない、地味な統治の裏方。そこに、俺は正式な足場を築く。
俺は天王府に赴き、兄貴に願い出た。
「兄さん。都の統治を回すための、実務の仕組みを整えたいのです。税の管理、人材の登用、記録の整備——この国を、戦のためだけでなく、続いていく国にするための、土台を」
兄貴は、少し意外そうな顔をした。
「お前が、そのようなことを?」
「はい。誰かがやらねばなりません。そして、これは俺の得意とするところです」
兄貴は、しばらく俺の顔を見ていたが、やがて頷いた。
「よかろう。お前に任せる」
その一言を、俺は深く頭を垂れて受け取った。
——取った。
誰も欲しがらなかった、地味な統治の実権。それは、楊秀清の三点セットのどれとも重ならない、俺だけの領域だった。表舞台の熱狂は、くれてやる。その代わり、この国が続いていくための骨格は、俺が握る。
天王府を辞し、俺は天京の街を歩いた。
戦火の跡が生々しく残る街並みの中を、これから統治すべき何十万の民が、不安げに行き交っていた。俺はその光景を眺めながら、久しぶりに、腹の底から静かな高揚が湧いてくるのを感じていた。
——さあ、俺のターンだ。




