第22話 長沙攻略
湖南の省都、長沙の城壁が見えてきたのは、1852年の夏だった。
攻城戦を前にした夜、兄貴は将兵を集めて祈りを捧げた。
「天父上帝、天兄イエスよ。我らは今、清の妖魔どもを討たんとしています。どうか、我らの兄弟たちをお守りください」
両手を組み、うつむいて祈る兄貴の後ろで、諸将も同じように頭を垂れている。兄貴の言葉は淀みなかった。もう何百回、何千回と繰り返してきた祈りだ。天にいる父、その次男である自分、そして長兄であるイエス——この家族の設定は、兄貴の中でとうに、疑いようのない現実になっていた。
俺はその後ろで、同じように頭を垂れながら、内心でこっそり笑いを堪えていた。
——ワロス。
自分の実の兄が、大真面目に「天にいる兄」に戦勝祈願をしている。しかもその「天の兄」は、俺の把握している限り、二千年近く前にローマ帝国の属州で磔にされた、ユダヤの説教師だ。この場にいる誰も、それを疑っていない。何千人もの将兵が、揃って同じ物語を信じ切って、頭を垂れている。
——いや、笑ってる場合じゃないんだよな、これ。
俺はすぐに真顔に戻した。滑稽に見えるかどうかは、俺の頭の中だけの問題だ。この物語がどれだけ現実離れしていようと、それを信じる何千人もの兵が、実際にこの城壁に向かって突撃する。物語の中身の真偽なんて、動員力の前ではどうでもいい。
俺は祈りの間、誰よりも神妙な顔を作り続けていた。
「アーメン」
兄貴が締めくくると、周囲から唱和の声が上がった。俺もその声に混ぜて、自分の口を動かした。
攻城戦は、結局うまくいかなかった。
長沙の城壁は堅固で、清軍の守りも固かった。何度か攻めあぐねるうちに、西王・蕭朝貴が、城壁近くでの偵察中に清軍の砲撃を受けて、命を落とした。
俺はその報せを聞いたとき、内心で表情を消した。
——また一人、史実通りに死んだ。
馮雲山に続き、蕭朝貴。永安で王号を得た五人のうち、すでに二人が欠けた。残るは天王、東王、北王、翼王。この先の序列が、いよいよ楊秀清と韋昌輝の二人に、より偏っていくことになる。
結局、太平軍は長沙の攻略を諦め、包囲を解いて北へ向かうことを決めた。
撤退の道中、兄貴は珍しく口数が少なかった。夜、俺が様子を見に行くと、兄貴はぽつりとこう言った。
「天兄も、地上では十字架にかけられた。苦しみは、信仰の証だ」
俺は、静かに頷いた。
「兄さんの信仰は、間違っていません」
もう何度も繰り返してきた言葉だった。だが、繰り返すたびに、その言葉は兄貴の中で、揺るぎない事実として積み重なっていく。それを、確認した。
俺は、兄貴の隣で、頭の中の帳面にもう一行だけ書き足した。
——西王、戦死。次の分岐点は、近い。




