表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/36

第15話 洗礼

 1847年の春、兄貴は広州へ向かった。俺も同行した。


 目指す先は、アメリカ人宣教師・羅孝全(ら こうぜん)(イッサカル・ロバーツ)の教会だった。あの『勧世良言』を書いた梁発の師匠筋にあたる人物で、正式な聖書の教えを授けているという評判を、兄貴はどこかで聞きつけてきていた。


 ——正直、これはまずいかもしれない。


 俺は同行しながら、内心で緊張していた。これまで兄貴の教義は、俺が誘導し、材料を並べ、兄貴自身に「発見」させる形で作り上げてきたものだ。もし本物の聖書学に触れて、専門家の目で訂正が入れば、この数年かけて積み上げてきた解釈の全部が、根本から揺らぎかねない。


 だが、止める理由もなかった。ここで俺が反対すれば、かえって怪しまれる。


 教会での日々は、思ったより淡々と過ぎていった。兄貴は熱心に聖書を学んだ。羅孝全(ロバーツ)も、最初のうちは兄貴の熱意を好意的に見ていたようだった。だが数ヶ月経つ頃には、微妙な空気が漂い始めていた。


 兄貴が、洗礼を受けたいと申し出たときだった。


 羅孝全(ロバーツ)は、はっきりと拒んだ。


 理由は、俺の耳にも断片的にしか入ってこなかった。生活の支援を求める態度が不純に見えた、とも聞いたし、これまで独自に説いてきた教義——上帝の次男を名乗る、あの啓示の話——が、正統な聖書解釈からあまりに逸脱していて、看過できなかった、とも聞いた。


 どちらにせよ、結果は同じだった。兄貴は、洗礼を受けられなかった。


 その日の夜、宿に戻った兄貴は、ひどく塞ぎ込んでいた。


 「俺の信仰は、間違っているのだろうか」


 初めて聞く、迷いの言葉だった。俺はその横で、何と声をかけるべきか、一瞬迷った。


 だが、迷ったのはほんの一瞬だった。


 ——これは、むしろ都合がいい。


 兄貴が、外部の権威から「正しい」と認められなかった。これはつまり、これから先、兄貴の信仰を訂正できる人間が、もうどこにもいなくなったということだ。羅孝全のような、本物の聖書学を修めた人間の目から見て、兄貴の教義がどれほど逸脱していようと、それを正す機会は、この瞬間、永遠に失われた。


 「兄さんの信仰は、間違っていません」


 俺は、静かにそう言った。


 「羅孝全殿の教えは、あくまで人の手による解釈の一つに過ぎません。兄さんが受け取ったのは、上帝ご自身からの直接の啓示です。人の解釈が、それを測れるはずがない」


 兄貴の顔に、わずかに光が戻るのが見えた。


 俺の言葉は、慰めではなかった。これから先、兄貴の教義を検証できる者は、この世に俺しかいなくなる、という宣言だった。ただ、兄貴にはそれを、慰めの言葉としてしか受け取れなかっただけだ。


 広州からの帰り道、俺は馬車の窓から外を眺めながら、静かな高揚を感じていた。


 外部の物差しは、もう要らない。これから兄貴が信じるものは、すべて俺の手を通る。


 ——ちょうどいい形に、なった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ