第14話 三千人の兄弟
紫荊山の信徒は、日を追うごとに増えていった。
1846年の時点で、すでに三千人。花県での不発が嘘のような広がり方だった。炭焼き、貧農、鉱山労働者——この地方でもっとも割を食っている層が、次々と「兄弟」の輪に加わっていく。
だが、数が増えるということは、それだけ目立つということでもあった。
偶像破壊の噂は、すぐに土地の有力者たちの耳に入った。土地神の廟を壊す、孔子の権威を否定する——郷紳と呼ばれる、この地方の実質的な支配層にとって、これは単なる異教徒の狼藉ではなかった。自分たちの権威の土台そのものへの攻撃だった。
俺はこの反応を見て、内心で舌打ちした。
——ほら、来た。
当然の反発だった。郷紳というのは、科挙という物差しの上に築かれた地方権力だ。孔子を否定する集団が三千人規模に膨れ上がれば、放っておくわけがない。地方官への訴え、村同士の小競り合い、拝上帝会の成員に対する私的な制裁——摩擦は、あちこちで火花のように上がり始めていた。
馮雲山が一時、清の官憲に捕らわれる事件も、この延長線上で起きた。兄貴が救出に奔走している間、信徒の間には動揺が広がった。指導者が不在になった瞬間、組織がどれだけ脆いかを、この一件は俺にはっきり見せつけた。
——今はまだ、いい。三千人程度なら、地方の摩擦で済む。
だが俺の頭の中には、もっと先の光景があった。この先、信徒はさらに増える。金田で蜂起し、清朝そのものを相手取る規模にまで膨れ上がる。そのとき、この「郷紳を全部敵に回す」というやり方のままでは、いずれ致命傷になる。
俺はふと、明の始祖・朱元璋のことを思い出していた。あの男も、もとは貧しい流民上がりだった。だが最終的に王朝として着地できたのは、科挙官僚制と儒教的正統性を、否定するのではなく取り込んだからだ。
兄貴たちがやっていることは、真逆だった。儒教を全否定し、郷紳という統治の実務層を、味方に引き込む代わりに丸ごと敵に回している。動員力としては、これが正解だった。土地なき客家、食うために流れてきた下層民は、儒教なんぞに何の未練もない。だが、いざ国を運営する段になれば、徴税も行政も、実務を回せる人材が必要になる。
その人材の供給源を、自分たちの手で潰しているのが今の拝上帝会だった。
——ここは、根本から作り直す必要がある。
儒教という古い物差しを全否定しながら、同時にそれに代わる新しい官僚供給の仕組みを、自前で用意しておく。李秀成のような、貧しい出自でも実力のある人間を、正式な制度で拾い上げる。郷紳を切り捨てる代わりに、その機能そのものを、別の形で再現する。
まだ、その設計図は頭の中にあるだけだった。実行に移す立場でも、時期でもない。
俺はただ、馮雲山が官憲から解放されて戻ってきた日、疲れ切った顔の兄貴の隣で、静かにそのことを考えていた。
この「三千人の兄弟」が、いずれ数万、数十万に膨れ上がったとき——今のこの摩擦の芽が、どれほど大きな傷になって返ってくるか。それを知っているのは、この場でおそらく俺だけだった。
——香港行きは、後回しにした。
南京条約で香港が開いたとき、俺は真っ先にそこへ渡って洋学を仕込むつもりでいた。だが兄貴があの晩に覚醒し、拝上帝会という核が動き始めた。この初速がある間に教義と組織の土台を固めておかなければ、後からいくら知識を持ち込んでも、乗せる器がなければ意味がない。順番を間違えたわけじゃない。今はまだ、器を作る番だった。
だが、朱元璋の失敗を繰り返さないための仕組みは、もう頭の中でおおよそ形になりつつあった。
科挙という物差しを丸ごと否定するなら、代わりの物差しがいる。儒教の素養ではなく、実務能力と、これから必要になる洋学の知識を測る、まったく別の選抜制度だ。
——日本の、士官学校の入試みたいなものだ。
あの世界で、身分でも血縁でもなく、筆記と実技の試験だけで、貧しい家の子でも将校になれる仕組みがあったはずだ。儒教の暗誦じゃなく、算術、地理、実務知識、そして西洋の技術。試験の中身を丸ごと入れ替えれば、「科挙を否定した集団」でありながら、「科挙以上に開かれた選抜制度」を持つ集団になれる。
李秀成のような、山深い貧村出身の実力者を、あとで偶然拾い上げるんじゃない。最初から、その手の人材を狙って引き上げる仕組みとして、設計しておく。
洋学は、まだ手元にない。だが、それを測るための箱だけは、今のうちに用意しておける。
俺はその設計図を、頭の中でゆっくりと組み立て直していた。




