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第13話 拝上帝会

 位牌の一件で塾を追われた兄貴は、それでもすぐには挫けなかった。


 花県での布教は、思ったほど広がらなかった。宗族の結束が強い村では、孔子を捨てた男の言葉になびく者は少ない。だが翌年、広西省桂平県の紫荊山というところで、すでに似たような信仰集団を作っていた馮雲山(ふう うんざん)と合流したことで、状況が一変した。


 馮雲山が地道に積み上げていた信徒は、炭焼き、貧農、鉱山労働者。土地を持たず、山深いやせた土地に押し込まれた、この地方で一番割を食っている層だった。


 俺はここで、初めて教義そのものに手を入れた。


 兄貴が説く教えの中に、「天下はおよそ一家、世間はみな兄弟」という一節があった。万姓は一姓から出て、一姓は一祖から出た——つまり人はみな、唯一の上帝という「大本」に連なる一つの家族だ、という理屈だ。兄貴自身は、これを客家社会に根付いていた「一つの本に帰着する」という宗族的な比喩の延長として語っていた。血のつながらない者同士を、系譜の物語で結び直す、あの手法だ。


 ——これ、そのまま使える。


 俺の頭の中には、まだ影も形もない未来の日本の記憶があった。天皇を父とし、臣民を赤子とする、あの家族国家というやつだ。血のつながらない何千万人もの人間を、一つの系譜の物語でまとめ上げる。あれと同じ技術が、ここにもう存在している。


 だが、決定的に違う部分があった。


 日本の天皇制は、あくまで「親」への縦の忠誠を調達する装置だ。臣民同士が平等な兄弟になるわけじゃない。上への忠誠だけを取り出して、下はバラバラのままでいい設計だった。


 上帝会の「一家」の理屈は、そうじゃない。上帝という共通の親を介して、信者同士が横並びの兄弟姉妹になる。これは身分もなければ、貴賎もない。土地を持たない客家、食うために流れてきた鉱山労働者にとって、これは単なる比喩以上の意味を持つ。


 ——ここを、もっと前に出すべきだ。


 俺は兄貴と馮雲山に、それとなく助言した。教義を説くとき、「上帝の子である以上、信者はみな平等な兄弟姉妹だ」という一節を、もっと繰り返し強調するように。実際に困窮している者には、この平等の理屈がそのまま生活の救済に直結することを、はっきり言葉にするように。


 馮雲山は素直にそれを実践した。彼はもともと現世利益を強調する布教が得意な男だった。病を治す、飢えから救う、そういう言葉と「入会すればみな兄弟」という平等の理屈を組み合わせることで、この地方の下層民の心を、面白いように掴んでいった。


 1846年までに、信徒は約三千人に達していた。


 俺はその数字を聞いて、内心でひとりごちた。


 ——日本より、先に行く。


 まだ影も形もないあの国が、いつか天皇という空白の記号で数千万人を縦につなぎ止める日が来る。だがそれは、上からの忠誠だけを調達する、片手落ちの統合でしかない。俺がここで作ろうとしているのは、それよりもっと徹底した統合だ。縦の忠誠だけじゃない、横の平等まで組み込んだ、より強い結束。


 誰も持たざる者同士が、上帝という一つの親のもとで、初めて対等な兄弟になれる。


 この理屈さえ骨の髄まで浸透させれば、清という国家そのものより強い共同体を、この山奥から作れる。


 兄貴は、自分が説いている教えの意味を、まだそこまで深くは理解していなかった。ただ、信徒が増えるたびに、自分の使命が正しかったという確信を強めていくだけだった。


 それでいい。理屈の設計図は、俺の頭の中にだけあればいい。


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