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第12話 孔子の位牌


 覚醒から数日後、兄貴は塾に立つと、教壇の脇に祀られていた位牌に手をかけた。


 孔子の位牌。文昌帝君の位牌。子供たちが毎朝、拝んでから席に着く、その村の塾では当たり前の光景だった。


 兄貴は、それを一言もなく、床に下ろした。


 教室にいた子供たちが、息を呑む音が聞こえた。誰も止めなかった。止め方が分からなかったのだと思う。塾教師である兄貴自身が、自分の教室の神を、自分の手で退けている。そんな光景を、誰も見たことがなかった。


 俺はその場に居合わせなかったが、後で聞いた話ではこうだった。兄貴は、位牌を運び出しながら、静かにこう言ったという。


 「これらは、真の神ではない。天にいるただ一人の父、上帝のみが、まことの神である」


 その日のうちに、話は村中に広まった。翌日には、塾の主が兄貴を呼び出し、教師の職を解いた。当然の結末だった。孔子の位牌を蹴り倒す教師を、誰が雇い続けられるだろう。


 俺は、この一連の出来事を、少し離れた場所から見ていた。


 ——これは、思っていたより大きい。


 単に信仰の話じゃない。俺の頭の中で、日本にいた頃の記憶が勝手に重なってきた。明治の初め、神仏分離令。廃仏毀釈。あの動きも、表向きは「神道の純化」という宗教政策の顔をしていたが、実際にやっていたことは、もっと露骨だった。全国に分散していた寺院と、その下に絡み合っていた地方権力・氏族のネットワークを解体し、代わりに天皇という一つの頂点に、国民の忠誠を再編成する。信仰の看板を掲げながら、実際にやっているのは統治機構の作り替えだった。


 目の前で兄貴がやっていることも、根っこは同じだ。


 この村では、孔子の権威と科挙という制度が、郷紳と宗族というネットワークをがっちり支えている。誰と誰が縁戚か、誰が科挙に受かったか、誰が塾の先生を任されるか——全部、儒教という共通の物差しの上に乗っている。その物差しを、一人の男が「これは偽物だ」と言って蹴り倒した。


 唯一神を立てるということは、信仰の選択なんかじゃない。


 統治のシステムを、まるごと入れ替える作業だ。


 俺はその理屈を、頭の中で組み立てながら、少し薄ら寒いものを感じた。兄貴は、本気でこれを信じている。老人の夢、上帝の子、キリストの弟——兄貴にとってこれは、疑いようのない啓示であり、生きる意味そのものだ。だが俺の頭の中では、それを「効率のいい社会実装だ」と、どこか他人事のように値踏みしている自分がいる。


 信仰と統治設計を、同じ図面の上で見てしまう自分に、俺は一瞬、自分自身が薄気味悪くなった。


 だが、その薄ら寒さは、すぐに別の感覚に塗り替えられていった。


 ——面白い。


 俺は、日本という国が、たった数十年で神仏分離から国家神道、そして近代国家へと編成し直されていく過程を、歴史の教科書の中でしか知らなかった。それを今、俺は自分の手で、この村という小さな盤面の上で、最初の一手として動かしている。


 塾を追われた兄貴の隣で、俺は表向き沈痛な顔を作りながら、内心では抑えきれない高揚感が湧き上がってくるのを感じていた。


 この村の小さな位牌一つが倒れただけだ。だが、この一手の先に、どれほど大きな盤面が広がっているか、俺だけが知っている。


 ——さあ、始めよう。


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