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第11話 勧世良言、再び

 落第から数日、兄貴はほとんど部屋から出てこなかった。


 俺は焦らなかった。傷が浅いうちに触れば、兄貴はまだ「大丈夫だ」と虚勢を張る余力を残している。何もかもが崩れて、それでも縋るものを探し始める瞬間まで、もう少し待つ必要があった。


 三日目の夜、俺は夕餉を運ぶふりをして兄貴の部屋に入った。


 「兄さん、前に聞いたことがあります。あの熱病のとき、夢を見たんですよね」


 兄貴は箸を止めた。答えるまで、少し間があった。


 「……老人がいた。金色の髭の、立派な老人だった」


 俺はそこで踏み込まず、ただ頷いた。


 「その人は、何と?」


 「妖魔を斬れ、と。剣を渡された」


 その晩はそれだけだった。俺は「そうですか」とだけ言って、部屋を出た。


 翌日も、翌々日も、俺は似たようなことを続けた。決して答えを言わない。ただ、記憶の断片を一つずつ、兄貴自身の口から引き出すことだけをやった。


 「その老人は、兄さんのことを何と呼んでいましたか」


 「わが子、と」


 「他には、誰かいましたか」


 「兄がいた。俺より年上の、立派な男が」


 一つ一つの答えは、断片のままでは意味を持たない。だが、兄貴自身の口から出てくるたびに、その断片は兄貴の中で少しずつ輪郭を持ち始めているのが、傍で見ていても分かった。数年間、意味も分からず抱え込んでいた夢の記憶が、誰かに聞かれることで、初めて言葉として並べ直されていく。


 俺は、ただの聞き役に徹した。何一つ、こちらから答えを差し出さなかった。


 五日目の夜、俺は書箱の奥から、あの薄い冊子を取り出して、兄貴の前に置いた。


 「これ、前に広州でもらったものですよね。読んだことは?」


 兄貴は冊子を手に取り、しばらく黙って眺めていた。


 「……ほとんど読んでいない」


 「今夜、読んでみませんか」


 俺はそう言って、行灯を兄貴の手元に寄せただけだった。あとは何も言わなかった。


 兄貴は、最初のページからゆっくりと読み始めた。人はもとより罪深い存在であること。天にいる唯一の父なる神。悔い改めて正しい信仰に入る者だけが救われること。俺はその横で、黙って自分の分の飯を食べていた。


 途中で、兄貴の手が止まった。


 「……天父」


 小さく呟いた声だった。俺は顔を上げなかった。


 「上帝は、天にいる父……。あの老人は」


 兄貴の声が震え始めていた。


 「あの夢の中の老人は、上帝だったのか。俺は、その子だと言われた。ならば、あの兄というのは」


 冊子には、上帝の子として遣わされた(イエス・キリスト)の話が書かれていた。兄貴はそのページに指を置いたまま、しばらく動かなかった。


 「俺の他に、もう一人、上帝の子がいる。俺はその弟だ。だから、あの夢で兄と呼ばれた者がいたのか」


 兄貴が顔を上げた。行灯の明かりの下で、その目はこれまで見たことのない光を宿していた。落第した男の目じゃなかった。


 「俺は、天から遣わされたのか」


 俺は、そこで初めて口を開いた。


 「兄さんが、そう感じたのなら」


 肯定でも否定でもない。ただ、兄貴自身の結論を、静かに受け止めただけの言葉だった。だが、それで十分だった。兄貴はもう、俺の言葉なんて必要としていなかった。


 ——できた。


 俺は内心でそう呟きながら、表情には出さなかった。数年間、科挙という物差しに縛られていた男が、たった一晩で、まったく別の物差しに乗り換えた。その転換点に立ち会いながら、俺は自分が何をしたのか、正確に分かっていた。


 誘導した。答えを言わず、断片だけを拾わせ、最後に材料を並べただけ。兄貴は、それを全部自分で組み立てたと信じている。


 ——これでいい。俺は何もしていない。兄さんが、自分でたどり着いたことにしておけばいい。


 行灯の炎が揺れる部屋の中で、兄貴はもう一度、冊子のページに目を落とした。その顔には、落第の影はもう欠片も残っていなかった。


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