もっともっと
育児を始めて、息子が幼稚園に入る時、いろいろ心配した。簡単にいうと、いじめられないかということだ。小学校に入ってもそんな心配は続いた。そのうち、息子は私とは生まれてきた星が違うらしい、いじめられっ子体質ではないらしいということで、自分の肩の上にずっしりと乗せていた心配という名の肩の荷を三分のニくらいおろした。
こんなふうに始めたばかりの頃は、自分の育児に自信がなくてはらはらしてた。
ところで、うちの子は日本語と中国語のバイリンガルなのだが、バイリンガルというとかっこいいが、なんのなんの、中国語の方が得意な状態で日本人学校に入った息子は、それはもう勉強についていくのが大変で苦労したのである。
授業中に泣いていた我が子。日本語教師だったから、たくさんの中国人に日本語を教えたことがあるが、その中国人の学生と同じように、濁音、拗音、促音、長音、撥音、会話の際の発音は全く問題ないのに、正確に表記できない。
うちの子の書く作文はいつもガタガタで、学校の個人面談ではいつも先生に、「お母様が自宅でサポートを」と言われていた。同級生の子と比べて、明確に学習に遅れが見られたのである。
そんなある時、あれは何年生だっけ?2年生か、3年生だったと思う。学校の個人面談で、担任の先生に私が怒られたことがあった。
「もっとちゃんと見てあげてください」
実は東北の同郷の先生だった。息子はこの先生が本当に大好きだったのだろう。それまでは、マイクラが大好きで建築家になりたいと言っていたのだが、突然先生になると言い出した。
そんな苦労しながら、しかし、折れずに学校に行き続けた息子は徐々に学習での遅れも取り戻し、中学からは塾に行くようになった。
英単語を目で(つまり書かない)覚え、漢字を中国の文化とありがたがって覚えることもなく、とりあえずこのくらいと省エネでずっとやってきたうちの子。それでも塾には文句言わず通ったので、通った分だけは少し成績が上がった。それから塾の先生に、この子は知識面で点数を落としているけど、理解力は高いと褒められた。
行きたい高校があるけど、うちの子の成績では難しいですかねぇと塾の先生に相談すると、なんのなんの、こんな高校よりもっと上を目指せますよ!お母さん!と言われた。
それで、ドッカン、私の導火線に火がついた。息子が私より偏差値が上の大学に行く夢である。自慢しまくってる未来の自分が彼方に見えた。
これをなんというのかなー見込みがあるとか能力があると言われた途端に花開く。頑張れば行けるのに、頑張らずにランク下のレッテルを貼られる。それで、人生が全部決まってしまうような焦燥感だろうか。とにかく焦り、居ても立っても居られないようなそういう感情。本来ならば手にできるお買い得品をぼけっとしている間に逃してしまうかもしれないといった感情に似ている。
正直、息子がレベルの低い高校へいき、レベルの低い大学へ行ったら、すっごいがっかりするなぁという思いが、前から心の底の方にあった。でも、成績はそんなよくなかったし、あまり期待できずにいた。それが、塾に行き出してから伸び始めたので、なんだこの子、頭良かったのかとスイッチが入った。
もっともっとって。
この時、自分は忘れていたことがある。それは、こういうことだ。自分は、親が好きで、勉強も嫌いじゃなかった。親や先生に褒められ、同級生に尊敬されたかったから一生懸命勉強した。テストはいつもいい点数だった。
そのことが、どんなに自分を疲れさせたか。
私の人生をどんなに大きく傾かせたか。
それをスコーンと忘れてた。
変なものだ。塾の先生にお宅の息子さんはもっと上の高校へ行けますよ、と言われて打ち上げ花火がドッカンと上がったようになって、それで、スコーンと忘れちゃうんだから。
勉強することが悪いことだと言いたいわけじゃない。ただ、自分が何のために勉強をしているかという目標や目的意識が大切で、また少し別の言葉で言えば、私は自分のために勉強をするべきだった。
褒められたいとか認められたいと思って頑張ってきた自分は、大学卒業後のなりたい物を見つけることができずに大きく座礁してしまった。
ところで、ちょっと話を変えると私の伯父さんはとても頭のいい人で、将来を嘱望されていたそうだ。医者になることを期待されてた。伯父さん、頭がいいだけでなく結構かっこよくって、高校時代はモテたらしい。ところが、彼はドロップアウトしてしまった。大学に行かなかったのだ。
大学に受かったばかりの自分は、なんだか天下をとったように浮かれてて、そんな私を眩しいものでも見るようにおじさんは見ていたわけだが、そんな私も大学卒業後には思うようにいかなくなったわけだ。
今思い返してみると、親や先生や大人たちは、競走馬の馬券を買っているようなものだったな。私はbetされた、掛け金をかけられた馬だった。その掛け金を回収する時点で、にっちもさっちも行かなくなった馬だ。
大人なんて本当に勝手な生き物だ。子供の未来を夢見るだけ夢見て、走れないとわかった途端に、あーあって、さっさと別の馬に乗り換えるのだ。
私は、社会に出ようとした時に自分が一体何をしたいのか、どう生きたいのかが全くわからなくなってしまった。ただ、不幸中の幸いだったのは海外へ出たことだ。親や先生や大人たちが、一体自分たちは掛け金を回収できたのかどうか判断できない範疇の外へ逃げ出したので、完全完璧なドロップアウトはしなかった。
今でも時々、浪人してたらもっと上の大学も行けたよなと思うことがあるんだけど、それでも、自分は学生の後にどんな自分になりたいかを描けず、やっぱり座礁しただろうと思い直す。
私は、うちの子が幼稚園に入るときに、いじめられないかと心配した。自分の育児に自信が持てず、オドオドしてた。ところがどうして、私が失敗しそうなポイントはもっと別のところにあったんだよ。
偏差値ばかり気にして、自分を見失うようながり勉というか点取り虫に、子供をしてはならないと、全くこれっぽっちも心配していなかったんだから。私は、自分の偏差値偏重の価値観で、ずっと息子と話してきたんだな。
いい大学を出ないのなら、私の息子じゃない。
そんな事実で自分の愛が変質するような恐れすら抱いていたわけで。
今更ながら自分の病の根深さのようなものに気がついた。かつて私に絡みつき散々に私を苦しめたものと同じもので、最も愛する人をがんじがらめにしようとする。
こういうところが親子って不思議だなと思う。愛でできているんだけど、最も苦しめたり、苦しめられる対象だというか。
それでも、勉強はして欲しい。勉強できる環境があることには感謝して欲しいし、努力せずに大人にならないでほしい。
ただ、自分を見失うほどに勉強をする必要はない。偏差値で大学を選ばないでもいい。自分がなりたい自分になるのに、最も適した道へ行ってくれるなら、私はそれで息子を自慢できるとやっと思えるようになった。
私の伯父はとても頭のいい人で将来を嘱望されたがドロップアウトしてしまい、私は頑張って勉強して大学へ行ったが、卒業後に目標を見失い、こんなことはありふれたストーリーなのかもしれない。そんな思い出を思い返しながら、
もっともっと、偏差値のいい大学に入って、お母さんの自慢できる息子になってください。
これを埋めることにした。自分の辛かった過去と一緒に。
春節の時にうちの子の志望校である高校に見学に行った。そこで、将来教師になりたがっていて教育学部にという話をしたら、対応してくれた先生が口には出さないけれどがっかりしたのがわかった。
学校の先生になるための大学よりも、お医者さんになるための大学の方が偏差値がいいからだ。先生は超難関国立とか超難関私立を目指すような、エリート学生を望んでいたわけで、ご自身だって先生なのだが、先生になりたいというとがっかりしたわけだ。
その先生の気持ちも、偏差値という人参を追って走っていたかつての競走馬の私としては十分理解できるのだが、
ただ、それって何のための大学なんだろうか。なりたい職業があって、それが十分に学べる大学であれば、偏差値的に超難関でなくてもいいじゃないか。
別に必ず先生になれと思ってるわけじゃない。他のものでも全然いい。大事なのは自分が心からなりたいと思っているということだ。
私にはかつていろんな選択肢があって、その中で、自分が一体何をしたいのかわからなくなってしまって、もっと楽に生きられたのに、手堅い仕事をしながら夢である小説を書きながら生きるとか、大きな森を迷うように生きた半生があるから改めて思う。
一つの目標があってそれに迷わずに進めるってすごいことだ。人間あれもこれもと色々目標があって迷うと、結局一兎も得られないようなことになることもあるから。一つのことに専念できれば、それなりの結果は得られるのだと思う。他の選択肢を捨てても構わない。それで、何か損をすることなんて本当はない。
だから、息子には私がしたのとは違う生き方をしてほしい。それが私が親として最大限息子にしてあげられることなのだと思う。伯父さんから私に受け継がれたありふれたストーリーを、私から息子には受け継がない。
それが、私が親になった時に、誓ったことだったのである。
2026.04.08
汪海妹




