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第9話 マリカの吐息と、本能の拒絶


「カズキ! まだ帰らなくて大丈夫?」


 店を出ると、マリカが上目遣いで聞いてきた。


 その瞳は、街灯の光を反射して潤んでいる。


「うん! まだ大丈夫だよ」


「じゃ、もう一軒付き合ってよ!」


 俺は「構わないけど、ちょっと待って」と断って、スマホを取り出した。


 まずはアリバイ工作だ。マユにLINEを送る。


『これから二次会だから、何時になるかわかんない。先に寝ててね』


 送信ボタンを押す指が少し震えた。


 すぐに既読がつき、返信が来る。


『久しぶりなんだから、楽しんで来てね! あんまり飲み過ぎないようにね!』


……胸が痛んだ。


 疑うことを知らないマユの優しさが、今は鋭い棘のように刺さる。


「了解、ありがとう」とだけ返して、俺はスマホをポケットにねじ込んだ。


 これで、障害はなくなった。


「感じのいいバーがあるんだけど、行く?」


「いいねえ! もちろん!」




 マリカが案内したのは、カウンター席だけの小さなバーだった。


 店内にはスムーズジャズが流れ、渋いマスターが静かにグラスを磨いている。


 まさに「大人の隠れ家」だ。


 並んでカウンターに座ると、距離が近い。近すぎる。


 マリカの肩が触れそうで、彼女の甘い香水の香りが俺の理性を揺さぶってくる。


「……カズキ、顔赤いよ?」


 マリカが耳元で囁く。


 吐息が耳にかかる距離だ。


 彼女の艶やかな唇、長いまつ毛、潤んだ瞳。


 もし今、後ろにベッドがあったら、俺は間違いなく彼女を押し倒していただろう。


(やばい、落ち着け……!)


 酒の勢いと色気で、下半身が暴走しそうだ。


 俺は必死に別のことを考えた。


 今の内閣支持率について……消費税の増税問題について……。


 政治の堅い話題で頭を埋め尽くし、なんとか理性を保とうと必死だった。


 会話は弾み、時間の感覚が麻痺していく。


 マリカはお酒が強い。顔色一つ変えずにカクテルを飲み干していく。


 俺はそのペースについていくのがやっとだった。




「お客様、申し訳ありませんが……」


 マスターの声で我に返った。閉店時間だ。


 時計を見ると、もう深夜になっていた。


 会計を済ませて外に出る。


 深夜の新宿は、まだネオンが煌めいている。


「これからどうする? 帰る?」


 マリカが試すように聞いてきた。


「うーん、どうしようか……」


「……うちに来る?」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。


 彼女の家。つまり、旦那も住んでいる家だ。


「えっ……」


 ただの「不倫相手の家」というだけじゃない。


 俺の脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックした。


 似たようなシチュエーションで、俺は一度、死にかけたことがある。


 その時の恐怖、絶望感が、本能的なアラートとなって全身を駆け巡った。




「いやいや、それはできないよ! 旦那さんの留守に行くのは、さすがに……嫌だよ!」


 俺は強めに断った。


 遠慮ではない。生物としての防衛本能だった。あそこに行けば、俺は破滅する。そんな確信があった。


「ふふ、真面目ね」


 マリカは少し残念そうに笑った。俺の内側にある恐怖には気づいていないようだ。


「じゃあ、帰る?」


 俺は彼女を見た。


 あそこ(旦那の家)はダメだ。でも、このまま帰したくない。


 この熱のまま、もっと深く繋がりたい。


「んー! ……いや、もう少しマリカと一緒にいたいな」


 俺の本音に、マリカは嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、少し歩こうか?」


「……そうだな」


 俺たちはあてもなく歩き出した。


 行き先なんて、二人とも分かっていた。


 ネオン街の先に並ぶ、ホテル街の方角へ。




 続く

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