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第8話 新宿アルタ前、1時間のドキドキと金目鯛


 待ちに待った土曜日。


 俺は新宿アルタの前に立っていた。


 待ち合わせは17時。


 時計を見ると、まだ16時だ。


 居ても立ってもいられず、1時間も前に来てしまった。まるで初デートの中学生だ。


「……落ち着け、俺」


 ショーウィンドウに映る自分を何度も確認する。


 新調したシャツ、整えた髪。


 42歳、妻子持ち。傍から見ればただの待ち合わせ中のおじさんだが、心臓は早鐘を打っていた。




16時50分。


 人混みの中から、一人の女性が現れた。


「――ッ!」


 息を呑んだ。


 会社での「秘書・沢田マリカ」とは、まるで別人だったからだ。


 硬いスーツ姿ではない。柔らかなシフォンのワンピースに、ふわりと巻かれた髪。


 夕陽を浴びて歩く姿は、街ゆく男たちが思わず振り返るほど艶やかだった。


「ごめーん! 待った?」


 駆け寄ってきた彼女から、ふわりといい匂いがした。


 俺は慌てて平静を装い、カッコつけて言った。


「いや、俺も今来たところだよ」


 本当は1時間前から直立不動で待っていたなんて、死んでも言えない。




「ふふ、嘘つき」


 マリカは悪戯っぽく笑うと、自然な動作で俺の隣に並んだ。


「顔、赤いよ? ……ずっとソワソワしてたでしょ?」


「……バレたか」


 彼女の手のひらの上で転がされている自覚はあったが、それが心地よかった。


「で、どこ行くの?」


「焼き鳥とお魚が美味しい店があるの。ついてきて!」


「オッケー」


「ふふ、カズキって素直で可愛いね」


 彼女が先導して歩き出す。




 その背中を追いかけながら、俺は思った。


(これは、ヤバい……完全に持って行かれてる)


 マリカに連れられて入ったのは、活気のある赤提灯の居酒屋だった。


「いらっしゃいませ! 何名様ですか?」


「二人。テーブル席で!」


 向かい合わせの席に座ると、会社にいる時よりもずっと距離が近く感じる。


「とりあえず生ビールでいい?」


「ああ、喉カラカラだ」


 運ばれてきたジョッキを合わせる。


「乾杯!」


 ゴクゴク、ゴクゴク。


 マリカは豪快に喉を鳴らしてビールを飲み干し、「プハァ!」と息を吐いた。


 白い喉仏が動く様も、口元についた泡を指で拭う仕草も、妙に艶っぽい。


「あー美味しい! 仕事の後のビールは最高ね!」


「ほんとだな。……で、ここのおすすめは?」


「ここはね、金目の煮付けが絶品なの! あと焼き鳥も美味しいよ」


「じゃあ、それ全部頼もう」


 料理が並ぶと、俺たちは夢中で食べた。


 甘辛いタレが染み込んだ金目鯛。炭火の香りがする焼き鳥。


 酒が進むにつれて、会話の堤防が決壊していく。


「カズキ、これも食べてみて! 美味しいから!」




 屈託のない笑顔で勧めてくるマリカ。


 俺たちは互いの家庭の話をした。


 俺はマユとの冷え切った関係や、居場所のない家のことを。


 マリカは「旦那は海外で忙しい」とだけ言い、それ以上は語ろうとしなかった。


「そっか……カズキも寂しいんだね」


「マリカもだろ?」


「……そうね。お金や物はあっても、心は埋まらないわ」


 その言葉に、俺は激しく同意した。


 俺たちは似た者同士だ。孤独な魂が、アルコールの熱で溶け合っていく。




「ねえ、そろそろ出よっか?」


 気づけば2時間が経ち、俺たちはすっかりほろ酔いだった。


「よし、会計しよう。俺が払うよ」


 財布を出そうとした俺の手を、マリカの白く細い手がパシッと押さえた。


「ダメ。今日は私が誘ったんだから、私のおごり」


「いやいや、男としてそれは……」


「いいから! その代わり……」


 マリカは上目遣いで俺を見つめ、少し潤んだ瞳で微笑んだ。


「……もう一件付き合ってよ。」


 心臓が跳ねた。


 これは「まだ帰りたくない」というサインだ。


「わかった。……次は俺が出すよ」


 会計を済ませて店を出る。


 夜風が熱った体に心地よい。


 俺たちは並んで歩き出した。


「ねえカズキ、いいバーがあるの」


「いいね!……行こう。俺も、まだマリカと一緒にいたいし」


 新宿の雑踏の中、俺たちは「一線」を超えるための、最後の助走を始めた。




続く


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