第5話 黄金の鳥籠、飼い殺しの婿養子
「パパ! 起きてよ! ママがご飯だって!」
子供の声で目が覚めた。
意識が浮上する直前、脳裏に「工事現場のような頭痛」と「手錠の冷たさ」が蘇る。
あれ? 俺は確か、借金に絶望して酒を飲んで、転んで……死んだんじゃなかったか?
違和感は一瞬だった。
ズキリ、と脳が歪む音がして、「前の記憶」が急速に薄れ、「この世界の記憶」が強引にインストールされる。
俺の名前は、前田和樹。42歳。
住所は東京・中野区の豪邸。
資産家の娘と結婚した、「逆玉の輿」の婿養子。
「……そうだ。俺は、ここで暮らしているんだった」
夢の中で女神ノアが何か言っていた気もするが、霧のように消えてしまった。
まあいい、今日も仕事だ。
リビングに行くと、家族はすでに食事を終えていた。
「あらカズキ、おはよう。今日は少し遅かったのね」
食卓に座っているのは、妻のマユ。
出会った頃よりもだいぶふっくらとして、貫禄がついている。
彼女はスマホを見ながら、残っていたトーストを指差した。
「パン、焼いてあるから。お義父さんとお義母さんはもう支度できてるから、急いでね」
「……ああ、わかった」
言葉遣いは普通だが、そこには「夫への愛情」が含まれていない。
まるで、住み込みのバイトに業務連絡をしているような口調だ。
隣には、7歳になる息子のタロウがゲームをしている。
「タロウ、おはよう」
「……」
無視だ。
ゲーム画面に夢中だ。
この家で、俺の序列は一番下。
息子は俺になつかず、何でも買い与えてくれる祖父母とマユの方ばかり見ている。
自分の血を分けた子供なのに、壁があるようで寂しかった。
俺がこの生活を選んだのは8年前。
パッとしない安月給の仕事と将来への不安に負け、社長令嬢だったマユとの結婚を選んだ。
「愛」よりも「安定」を選んだ結果が、これだ。
今の俺の仕事は、義父が経営する会社の「正社員」とは名ばかりの、一家の専属雑用係兼運転手。
「カズキ、そろそろ車回しておいてくれる? お父さんを待たせしちゃ悪いから」
マユが淡々と言う。
怒鳴られているわけではない。でも、この「興味のなさ」が一番堪える。
俺はガレージに向かった。
そこに並ぶのは、義父のベンツ、マユのBMW。
そして、家族用の一台は――最新型の高級アルファード。
その白い車体を見た瞬間、ドクンと心臓が跳ねた。
(……うっ)
強烈な吐き気と、冷や汗が吹き出す。
なぜだ?
ただの高級車だ。義父が買ったばかりの、何の問題もない新車だ。
それなのに、「近づいたら人生が終わる」ような、得体の知れない恐怖が身体を走る。
「……なんだ、この感覚は?」
震える手でドアノブに触れる。
冷たい金属の感触が、なぜか「手錠」を連想させた。
記憶にはないはずの「魂のトラウマ」が、俺に警告しているようだった。
俺は恐怖を押し殺し、運転席に乗り込んだ。
もちろん、俺個人の車なんてない。この家のハンドルを握るのは俺だが、行き先を決める権利は俺にはないのだ。
傍から見れば、中野の豪邸に住み、何不自由ない生活を送る「勝ち組」に見えるかもしれない。
だが現実は、金はあるが自由はなく、心を通わせる相手もいない。
マユとはもう何年も「男と女」ではなく、「同居人」のような関係だ。
運転席でバックミラー越しに、楽しそうに話す妻と息子を見る。
その輪の中に、俺だけが入っていない。
(なんで、こんなに虚しいんだろう)
(愛がないって、こういうことなのか……)
金のために自分の人生を明け渡した代償は、想像以上に重かった。
俺はこのまま、誰からも必要とされず、ただの「便利な運転手」として生きていくのだろうか。
「……寂しいな」
ハンドルを握る手に、じっとりと力がこもった。
続く




